なめとこ山の熊/宮沢賢治=ユリ熊嵐、命をいただきます、ウィンウィン。

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狐人的あいさつ

コンにちは。狐人コジン 七十四夏木ナナトシナツキです。

読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?

そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。

なめとこ山の熊-宮沢賢治-イメージ

今回は『なめとこ山の熊/宮沢賢治』です。

文字数7500字ほどの童話。
狐人的読書時間は約23分。

淵沢小十郎は熊を撃つ。生活のために熊を撃つ。
罪悪感を持って熊を撃つ。
なめとこ山の熊たちはそんな小十郎が好きだった。

熊に好かれるひとになりたい。生命への感謝を忘れない。

未読の方はこの機会にぜひご一読ください。

狐人的あらすじ

淵沢小十郎はなめとこ山の熊を撃つ猟師だ。しかし好きで熊を撃つわけではない。商売のため、生活のため。小十郎もできることなら罪のない仕事がしたい。が、彼にできる仕事は熊を撃つ猟師しかない。なめとこ山の熊たちは、猟師という仕事は好きではないが、小十郎のことは好きだった。

小十郎には熊の言葉がわかる気がした。ある晩、山小屋近くの湧水わきみずで、熊の親子が遠くの谷を眺めているのに出くわした。そして母熊と子熊の会話の内容が、小十郎にはわかるのだった。小十郎は音を立てないように、こっそりと戻りはじめた。

なめとこ山では豪気なあるじである小十郎だが、熊の毛皮と肝を売りにいく荒物屋ではみじめだった。小十郎は交渉する話術も持たない。だから店の主人に安く買いたたかれてしまう。そしてそのことを知らず、卑屈に頭を下げるしかない。

小十郎は決して熊を憎んでいるわけではない。ある日、一頭の熊に遭遇した小十郎は、鉄砲を構えた。熊は飛びかかろうか撃たれてやろうか、思案しているようだった。そして小十郎に言う。「もう二年ばかり待ってくれないか」。――二年後、小十郎の小屋の前に口から血を吐いて倒れている熊の姿があった。小十郎は熊のために拝んだ。

時は流れて、小十郎も老いた。ある一月の冬山で、小十郎は大きな熊と対峙した。熊ども、許せよ。小十郎は倒れる瞬間そう思った――それから三日目の晩、月は氷の玉のようで、雪は青白く、星々はちらちら呼吸をしている。もはや動かなくなった小十郎を、黒い大きなものがたくさんになって囲んで、祈るようにひれふしていた。

狐人的読書感想

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『なめとこ山の熊』は『ユリ熊嵐』というアニメのモチーフのひとつなのでは? ――といわれている点に興味を覚えました(まずそこ?)。

人間と熊と、敵対関係にあってもお互いにどこか惹かれるところがあって……、という部分がたしかに共通しているように思います。

『なめとこ山の熊』の場合は、万病薬ともいわれる熊のや毛皮を求めて、小十郎という猟師が熊を狩ります。いくら生活のためとはいえ、ここは人間のエゴともとれるところですよね。

しかし動物だって生きるためには外敵を排除して、他の動物を食べなければなりません。なめとこ山の熊たちはそのことを充分に理解しています。だから熊たちは、猟師という仕事に罪の意識を持っている小十郎が、好きなのだと思いました。

自然の摂理を理解して、受け入れているなめとこ山の熊たちの姿は、ひとつ悟りを開いた者の姿を彷彿とさせます。

感情に支配されがちな人間は、この悟りを開くことがなかなかどうしてむずかしく、悲しみ、怒り、憎しみ――こういった激情に駆られて、無益なふるまいをしてしまいます。

あるいは当たり前のことになりすぎていて、無感情に無感動に、それを行ってしまうこともあります。たとえば食事のときの「いただきます」や「ごちそうさま」です。

両方とも「命をいただきます」、「命をごちそうさま」といったように、その言葉には元来、食物や、それをつくってくれたひとたちへの、「命を与えてくれたもの」への感謝の意味が含まれているはずなのですが、その気持ちを意識した上でこれらの言葉を口にすることは、普段あまりないような気がしました。

もちろん、他者の命をいただいて生きていることに、毎回毎回罪の意識を感じてしまい、悲しくなったりかわいそうになって食べられなくなってしまっては、とても生きてはいけないわけで、当たり前のことが当たり前になるのは当たり前のことなのですが、「いただきます」や「ごちそうさま」を言うときに、たまにふとこのことに思いを馳せることができたらいいなあ、と僕は思いました。

生命への感謝を忘れないということ、たまにそのことを思い出すこと――弱肉強食は自然の摂理であって、それについて思うことこそがじつは不自然で、それこそ人間のエゴにすぎない、という見方もできるのでしょうが、この物語を読んだ僕は、小十郎のように、なめとこ山の熊に好かれるような、少なくとも嫌われないようなひとでありたいと思いました。

多かれ少なかれ、自分は世界から搾取している、だから自分も世界から搾取される――こうした意識を持っておくことで、自分の身や自分の身内の身にもしものことがあったとき、悲しみや憎しみに負けない心や覚悟を得られるのかなあ、とも。おそらくそれは口で言うほど簡単なことではないのでしょうが。

――とはいえこうしたことを話していると、どうしてもこの弱肉強食というこの世の在り方について考えざるを得ないのですよねえ……。

なぜ生命は他の生命を喰らわなければ生きていけないのでしょうか?

喰って、喰われて、喰って、喰われて……、そうやって世界は循環している、食物連鎖の環。まさに地獄の光景だ、といっても決して過言ではないように思われるのです。

この世界は本当に美しくすばらしいところなのでしょうか?

満開の桜が散る姿が醜く映るときさえあります。

地球以外の星に、生命の存在が確認できない理由は、なんなのでしょうね?

じつは地球だけが特殊な星で、ほかの星では物質的な身体を持たない、「思念生命体」とでも呼ぶべき生命がいるのではないか、思考する脳がなければ思念が独立して存在できるいわれはないわけなのですが、あるいは思念が存在を維持するための「思念的なエネルギー」みたいなものがあって、本当の生命は「思念生命体」として存在していて、時間や空間に縛られることなく生きているのではないでしょうか?(それを生命として定義するのか否かは別にして)だから他の星では生命の存在を確認できないのでは、みたいな。

――というようなSF的なことを考えてしまう、という余談でした(いきなりの余談失礼しました)。

さて、もうひとつ印象に残ったのは小十郎が荒物屋に熊の毛皮を売りに行くシーンです。ここでまず思ったのは「ひとは立場によって己の態度を変えなければならない」ということです。

なめとこ山では豪気な山のあるじである小十郎も、町に下りれば熊のや毛皮を買ってもらうために、荒物屋の主人に卑屈な態度をとらざるを得ません。

これは誰にでも共感できる部分なのではないかなあ、と思います。家と学校・会社とでは、また先輩と後輩とでは、上司と部下に対してでは、あるいは家族と友達と恋人と知らない人とでは――ひとは自分の態度を無意識に変えて生きているはずです。

英語には敬語がないということはよくいわれますが(厳密には丁寧語がありますが)、敬いや気遣いによる表面上の言葉や態度は変わっても、心の芯の部分は変わらず、誰にでも等しく接せられる自分でありたいと願いますが、とくに利害関係が生じている相手に対しては、これがなかなかうまくいかないような気がしています。

ありのままでいることの困難さ、みたいな。

つぎに思ったのは「経営について」、というか「あこぎな商売について」です。

小十郎が罪の意識に葛藤しながら、苦労して狩ってきた獲物が、なんの苦労も葛藤もしていない商人に安く買いたたかれてしまう様子は、見ていてあわれに思うし、腹も立ちました。

もちろんこの物語の場合は、あまりに安いとわかっていながら、それを言わない小十郎にも問題はありますが、あるいは知識がないばかりに足元を見られてしまうみたいな状況を想像してしまい、どうしても小十郎よりの目線で見てしまいました(そしてここに勉強するひとつの理由を見出せるのかもしれません。騙されないために勉強する、といえば、なんだかちょっと寂しいような気もしますが)。

できるだけ安く買って高く売る、それが商売というものの基本であって、だから一概に悪いことだと断じることはむずかしいようにも思えるのですが、しかしあまりにあこぎな商売というのは見ていて気持ちのいいものではありません。

とはいえ人間感情や価値観の問題もあるので、そこには当然個人差もあって、売り手も買い手も得をするという、いわゆる「Win-Win(ウィン ウィン)」のバランスをとるのはそれこそむずかしいことなのでしょう。

顧客は得がなければ離れて行ってしまい、顧客の得を多くしすぎれば企業のもうけはなくなってしまうという、ちょっと現代の経営についても思わされるところでした。

宮沢賢治さんもこのことには強い思いがあったようですね。その気持ちが表れている箇所を以下に引用して残しておきます。

けれども日本ではきつねけんというものもあって狐は猟師に負け猟師は旦那に負けるときまっている。ここでは熊は小十郎にやられ小十郎が旦那にやられる。旦那は町のみんなの中にいるからなかなか熊に食われない。けれどもこんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく。僕はしばらくの間でもあんな立派な小十郎が二度とつらも見たくないようないやなやつにうまくやられることを書いたのが実にしゃくにさわってたまらない。

読書感想まとめ

『ユリ熊嵐』が好きなひとにおすすめできそう。

「命をいただきます」、「命をごちそうさまでした」という感謝の気持ちをたまには忘れないようにしたい。

ありのままの自分でいたいけれどそれがなかなかむずかしい。

「Win-Win(ウィン ウィン)」

狐人的読書メモ

なめとこ山の熊-宮沢賢治-狐人的読書メモ-イメージ

本来人間は卑屈になる必要などないのだという気がする。しかし卑屈な気持ちというのはどうしようもなくどこかからやってくる。コンプレックスのない人間がいるのだとしたらそれは本当にすごいことだし本当に羨ましいとも思ってしまう。……これが卑屈な気持ちなのか?

・『なめとこ山の熊/宮沢賢治』の概要

1934年(昭和9年)『現代童話集』(耕進社)へ所収されたのが初出とされている。宮沢賢治の職業猟師に対する見方、資本主義経済の搾取性について描かれているところが興味深い。賢治作品には珍しい「常体」(一部「敬体)。なめとこ山は架空の山と思われていたが、明治初期、小岩井農場の南の山が「那米床山」と呼ばれていることがわかった。小十郎のモデルは花巻市西方の山地のマタギではないかと考えられている。

以上、『なめとこ山の熊/宮沢賢治』の狐人的な読書メモと感想でした。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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