狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『乳色の靄/葉山嘉樹』です。
文字数11000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約43分。
乳色の靄が人の目を曇らせ、ものごとの本質を見にくくします。
乳色の靄とは人のエゴが生み出すものではないでしょうか。
戦争、いじめ、競争社会。暴力から始まる憎しみの連鎖を思う。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
(短いあらすじが『狐人的読書感想』にもあります)
気象台が40年来の暑さを報じたその日、40歳の男が駅の待合室から駅前広場を眺めていた。キョロキョロしちゃいけない。誰も怪しんだりしていないさ。手に持ったバスケットを見ている者は誰もいない。男は周囲を警戒しながら人混みに紛れ、列車へと乗り込んでいった。
混雑している三等車の座席にバスケットを置いた男は、そのまま食堂車に入った。そしてビールを飲みながら新聞を読み始めた。記事には棍棒強盗と載っていた。消防組、青年団、警官隊、総出で付近の山林を探したが、犯人はいまだ捕まっていない。ふ、もし捕まってたら、それはニセモノさ、と男は心の中で呟いた。
男は拷問のことを考えた。最初の拷問のときのことを。食べてもいない泥を吐いた。それは血ににじんだ臓腑だった。汚い恰好をして公園で寝ていただけなのに、半年もの間狭いビックリ箱の中に入れられて、ようやくそこを出ればつぎは浮浪罪で留置された。以後、それが男の生活の基本的な習慣となった。
(どうせそうなる運命ならばやられるだけじゃ損をする。俺もぶん殴ってやれ!)
男の仕事はだんだん大きく、大胆になっていった……。
――昨夜2時ごろ、富豪であり、大地主であり、県政界の大立物である本田氏が、自宅で睡眠中何者かに襲われた。本田氏は寝ているところを、屋敷の潜り門用の丸太ん棒で、いきなり脳天を殴られた。犯人の行方は依然としてわかっていない……。
男が三等車の席に戻るとバスケットはなかった。そこには、網棚から和服の帯を吊るして、首でもくくるように輪の中に顎を引っかけて眠る、17、8歳の少年がいた。
「俺のバスケットを踏むんじゃねえ」
「ふぁあああ……、兄さん、このバスケットはお前のかい?」
男はぎくりとした。たしかにこのバスケットは俺のものじゃない。……得体の知れない少年だった。
「兄さんは二等車に行けよ。俺たちゃ、明日から忙しいから、汽車ん中で寝ていきてえんだよ」
「どこへ行くんだ?」
「お前、スパイか?」
「え?」
「わからねえか? 警察かってきいてんだよ」
そんなことを訊いてくる少年は、どうやら警察ではなさそうだ。――ひょっとするとお仲間かもしれない、男は思った。
「俺は商人だよ」
「そうかい? この列車にゃスパイが20人乗ってるぜ。だから俺はお前もまたそうなのかと思ったよ」
男は今度こそ本当に驚いた。言い知れぬ凄みのある少年だ。40歳になる自分と同じ口を利いてくる……。
「お前はいったいなんなんだ?」
「俺かい? 俺は労働者だよ。労働争議をやってる労働者さ」
男は少年から危険なにおいを感じ取り、言われるまま二等車へと移ることにした。二等車は空いていて、男は座席に座るとさきほどの少年のことを考えた。男にとって少年はいわば怪物であった。男は言葉の違う国民ほどの隔たりを少年に感じていた。何かわけのわからない切迫した感じが彼をつついた。
やがて列車がプラットフォームに入ると騒ぎが起こった。警官が十数両の車両の中に、一斉に飛び込んできたのだ。男は懐の中の匕首にそっと触れた。
しかし警官は自分のほうへはやってこない。男が様子をうかがっていると、プラットフォームの上が一気に混乱し始めた。3、40人ほどの人の群れが、口々にわめき、罵り、殴り、髪の毛を引っ掴みながら連行されていく。そのとき――
「同志! 突破しろっ!」
さきほどの少年が鋭く叫び、大暴れに暴れ出した。驚くような俊敏さで、警官のひとりを蹴り上げた。
汽車は静かに動き出した。男は深い吐息をついた。あれはなんだったのだろう? なぜ「突破しろっ!」だったのだろう? どうして「逃げろ」と言わなかったのだろう……。男の頭は少年のことでいっぱいになった。男はこれまでずっと、他人を殴ることが、彼を殴り続けてきた警官に対する唯一の復讐の方法だと信じてきた。
が、乳色の、磨硝子の靄を通して灯を見るように、監獄の厚い壁を通して、雑音から街の地理を感得するように、彼の頭の中に、少年が不可解な光を投げた。
(お前たちはすごいよ。だけど俺にはわからねえよ。どうか、けがのないようにやってくれ)
職業的な計画を忘れ、少年にすべての考えを奪われてしまった男を乗せて、列車は走り続けるのだった。
狐人的読書感想
おもしろい小説でした。
葉山嘉樹さんといえばプロレタリア文学、ということを何度も言ってきている気がしますが、僕にしてみればプロレタリア文学の作品は、どうしてもその主義主張するところが強すぎるように感じてしまい、エンターテインメントとしてはなかなか楽しみづらいところがあるのですが、この『乳色の靄』はあまりそういったことを思わずに楽しめました。これまでに読んできた葉山嘉樹さん作品の中で一番好きかもしれません。
ミステリー要素、少年活劇要素、そしてプロレタリア要素が含まれた小説で、ひょっとすると「どれも中途半端で尻切れトンボな作品」といった感想を抱く方もいるのではなかろうか、などと想像してみるのですが、逆に言えばそれぞれの要素について想像力を膨らませることのできる小説だと僕は思い、とてもインスピレーションを刺激されます。これをもとに何か書いてみたい衝動に駆られます(いいモチーフを見つけました――とはいえ具体的なイメージはいまだ得られず……)。
思わずあらすじがあらすじっぽくなくなってしまったので(それが狐人的あらすじ!)、一応以下にも内容をまとめておきます。
主人公の男はかつて浮浪罪で捕まってしまい、刑務所でひどい拷問を受けます。男はそのせいで「自分がやられるだけでは損をするばかりだ」と思うようになり、夜中金持ちの屋敷に忍び込んで、寝ている主人を棍棒で殴り、金品を盗みだします(棍棒強盗)。
そんな男が逃走中の列車の中でひとりの少年に出会います。話してみると少年は物怖じせず、その言うことはいちいち男をドキリとさせて、得体の知れない凄みを感じさせます。
少年は労働争議を行う労働者のひとりでした。列車が駅にとまったとき、彼らの動きを事前に察知していた警官隊が、労働者たちを連行していきます。そんななかに「突破しろっ!」と叫んで警官を蹴倒すあの少年の姿が――。
男は少年の姿を見て、かつて受けた拷問の仕返しを、まったく関係ない他人にしていること――これまでの自分の人生に疑問を抱くも、それを完全に否定することもできず(あるいは否定したくないという気持ちから)、心の中で労働者たちにエールを送り、列車はそのまま走り続けていきます。
(てか、あらすじ、これでよかったなあ……、反省)
男からしてみれば、労働者の少年たちも強いもの(労働法整備を進めない国や労働者から搾取する経営者)に苦しめられています。しかし彼らは、自分のようにその鬱憤を赤の他人に対して晴らすのではなく、しっかりと自分を苦しめる対象を見据えて闘っているのです。
少年たちは(暴力が良いことだとは決していえませんが)暴力を正しいと信じられることのために、自信を持って使っています。ただ自分の欲望を満たすため、ストレスを解消するため、犯罪のために暴力を使っている男は、ある種のおそれを感じるほどに、この少年の姿を眩しく見ていることがわかります。
このあたり、僕も非常に感銘を受けました。
とはいえ、暴力についてはやはり思わされるところがあります。「どんな理由があっても暴力はよくない」ということがいわれますが、たしかにひとつの暴力がいくつもの暴力を生み、それが戦争にまで発展してきた歴史的事実を鑑みるに、この意見には素直に頷きたいのですが、ではやられっぱなしでいいのか、弱いものはやられるだけやられて泣き寝入りをするしかないのか、などと訊かれてしまえば、これは答えに窮するところです。
「正義」と「悪」も絶対的なものではなくて、人間の主観が生み出した曖昧な概念です。自己の正義を信奉する人間が強いのは明らかな事実ですが、正義を信奉した人たちがたくさんの悲劇を生み出してきた歴史もある。それが正しかったのか間違っていたのかだってやはり多数派の人間の主観でしかない。
みんなが暴力をふるわなければ、みんなが苦しまず悲しまずにすみます。しかしながら、交通事故などに代表される「故意ではない暴力」といったものもあります。みんなが暴力をふるわない世界は現実的には不可能だといえるのではないでしょうか。
だからといってそれを諦めて、まったく目指さないのもどうなのでしょう? 暴力の被害にあったとき、それを許せる自分でありたいと考えますが、自分が再起不能の重傷を負ったとき、あるいは自分の大切な誰かが暴力によって失われたとき、はたして加害者となったものを許せるでしょうか……。
戦争、いじめ、競争社会――憎しみの連鎖は誰かが断たなければなりません、誰かが耐えなければなりません、だけどいったい、誰が、誰に、それを耐えてくれと言えるでしょうか?
まずは憎しみを耐えられるひとに、そして憎しみを耐えているひとにほんの少しでもやさしさを示せるひとに、僕はなりたい、と思わずにはいられないのですが、憎しみを抱いているときにひとの好意を受け入れること、そして目の前で憎しみを抱いている、苦しんで悲しんでいるひとにやさしさを示す勇気を持つことの困難さをもまた思わずにはいられません。
このあたりは本当に難しいお話だという、ミステリーにも、少年活劇にも、そしてプロレタリアにもまったく関係のないお話をしてしまった、というのが今回の読書感想のオチとなってしまいました。
読書感想まとめ
ミステリー要素、少年活劇要素、そしてプロレタリア要素が含まれた小説。純粋にエンターテインメントとして楽しめました。「どっちつかずの小説だ」とか言わないように(という強制はいたしません、それぞれにそれぞれがそれぞれの感想を持つ、それでいい、それが読書である、――きっと)。
狐人的読書メモ
拷問された経験から棍棒強盗をするまでに至った男の件からは、『東京グール』のカネキ君とヤモリの拷問の件を連想した。やはり今回の読書感想と似たような、漠然とした思いを抱いた記憶がある。
・『乳色の靄/葉山嘉樹』の概要
1926年(大正15年)『新潮』(12月号)にて初出。これまで読んできた葉山嘉樹作品のなかで1番好きなような気がする。ちなみにそうなると、2番は『信濃の山女魚の魅力』という随筆、ということになる。ただしやはり「どっちつかずの小説」とか言われてしまう可能性は否定できない。(万人向けではないという観点から)おすすめの際には要注意。
・今回気になったフレーズ抜粋
人々は、眼を上げて、世界の出来事を見ると、地獄と極楽との絵を重ねて見るような、混沌さを覚えた。が、眼を、自分の生活に向けると、何しろ暑くて、生活が苦しくて、やり切れなかった。
――プロレタリア的な表現として秀逸だと感じた。
「人間どもは、何だって、暑い暑いとぬかしながら、暑い処にコビリついているんだ。みんな足をとられてやがる。女房子に足をとられたり、ガツガツした胃袋に足をとられたり、そう云う、俺だって、ざまあねえや、今まで足をとられていたじゃねえか。俺のは、鎖がひっからまって! 動きがとれなかったんだ。……」
――何かにとらわれて身動きができないように感じていても、じつはあとで考えてみるとその何かは大したことではなかった、みたいな? なんとなく共感を覚えたところ。
何てったって、化けるのは俺の方が本職だよ。尻尾なんかブラ下げて歩きゃしねえからな。
――(前者)ナナトシもそう思う。(後者)きみはそう思っても、ナナトシはそう思わないかもしれない。
「顔ばかり見てやがらあ。足や手を忘れちゃ駄目だよ。……」
――含蓄がある、ような気がする。
(どうせ、そうなる運命なら、それに相当した事をしなけりゃ損だ! 俺も打ん殴ってやれ!)
――今回1番思わされた箇所。
彼の反抗は、未だ組織づけられていなかった。彼の眼は牢獄の壁で近視になっていた。彼が、そのまま、天国のように眺める、山や海の上の生活にも、絶えざる闘争があり、絶えざる拷問があったが、彼はそれを見ることが出来なかった。
――人は自分が苦しいとき、どうしても自分の状況だけが1番苦しいのだと思ってしまいがちになるが、決してそうではない。
棍棒は、剣よりもピストルよりも怖れられた。
――なんとなくいいフレーズ。応用が利きそうである。
「こんな調子だと、善良な人民を監獄に入れて、罪人共を外に出さなけりゃ、取締りの法がつかない」
――荒唐無稽な逆説的表現。やはりなんとなくいいフレーズな気がする
生霊や死霊に憑かれることは、昔からの云い慣わしであった。そして、怨霊のために、一家が死滅したことは珍しくなかった。だが、どんな怨霊も、樫の木の閂で形を以って打ん殴ったものはなかった。で、無形なものであるべき怨霊が、有形の棍棒を振うことは、これは穏かでない話であった。だが、困った事には、怨霊の手段としての、言論や文字や、棍棒は禁圧が出来たが、怨霊そのものについては? こいつは全で空気と同じく、あらゆる地面を蔽ってはいたが、捕えるのに往生した。
――真言っぽい。
彼には、その少年は、云わば怪物であった。
――お気に入りフレーズ。
――一年の人間の生活は短くない。だが、無頼漢共を量る時には、一年の概念的な数字に過ぎなかった。その一年の間に、人間の生活が含まれていると云う事は考えられなかった。それは自分には関係のない一年であった。その一年の間に、他人の生活の何千年かを蛹にしてしまう職業に携っている、その人間の一年では絶対にないのであった。その人は、社会的に尊敬され、家庭的に幸福でありながら、他の人の一生を棒に振ることも出来た。彼には三百六十五日の生活がある! 彼には、三百六十五日の死がある。――
――時間は相対的なものであるということ? アインシュタインさんも言ってるし、そんな意味で興味深い描写。
――(番外として)キョロキョロ、ニョキニョキというオノマトペが気にいった。
以上、『乳色の靄/葉山嘉樹』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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