狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『ごんごろ鐘/新美南吉』です。
文字数13000字ほどの少年小説。
狐人的読書時間は約28分。
戦争のため爆弾になるごんごろ鐘。
村人たちはごんごろ鐘との別れをそれぞれに惜しむ。
論理的思考をする子供。ゲマインシャフト。たたら場。
とてちてとてちて。
半分くらいわかる気がした。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
3月8日。
戦争のための爆弾にすると、ごんごろ鐘が献納されることを、お父さんから聞いて僕は知る。学校の門も鉄柵も、とっくに献納したのだから、尼寺のごんごろ鐘だって、お国のために献納したっていいのだと、僕は思った。
3月22日。
僕は新学期から国民学校の6年生になる。春休みの第2日の今日、ごんごろ鐘がいよいよ「出征」することになった。尼寺には子供から老人まで、たくさんの人が集まっていた。それはお祭りのとき以上の賑わいだった。村の者はそれぞれに、ごんごろ鐘への思いがある。とくに子供たちにとって、そこは遊びにいくときの集合場所だった。みんなそれぞれにごんごろ鐘とのお別れをすませた。村の子供たちは別れを惜しんで、荷車に引かれていくごんごろ鐘を町まで送っていった。
3月23日。
子供会のために尼寺に集まった僕たちは、息子におされてやってきた、乳母車に乗ったお爺さんに出会った。お爺さんはごんごろ鐘にお別れをするため深谷から来たというが、鐘は昨日町へ送ってしまった。ごんごろ鐘はこの村だけでなく、周囲の村々が協力してつくられたもの――お別れができずに残念がるお爺さんを見て、僕たちはこのお爺さんを町まで連れていってあげることを決めた。
夕御飯のとき、ごんごろ鐘が深谷のあたりで作られたことを、僕はお父さんから聞かされた。そしてお爺さんのことはよいことをしたと褒められた。あのお爺さんもまた、鐘と深いつながりがあったのだ。ラジオが爆撃機の活躍を報じていた。僕は黒い爆弾の落ちてゆく様子を想像した。古ぼけたごんごろ鐘も新しい爆弾になる。休暇で帰ってきている兄さんが、「古いものは新しいものに生まれ変わって、はじめて役に立つのだ」と言った。僕は半分くらい、その言葉の意味がわかるような気がした。
狐人的読書感想
新美南吉さんの少年小説、日記形式。
主人公の「僕」の日記のような形で綴られている小説ですが、僕はこの「僕」のようなキャラクターが結構好きです。論理的思考をするというか、小生意気な子供というか。それはごんごろ鐘の由来を考察する場面や、大人たちがごんごろ鐘で爆弾が何個できるかとか話している場面で見られるのですが。『論理的思考をする子供』というキャラクターはぜひ創作に取り入れたい人物像です。
新美南吉さんの『ごんごろ鐘』の、現存する自筆原稿の末尾には「十七・三・二六」と制作日付があるらしく、ごんごろ鐘の献納(金属類回収令―昭和16年8月30日公布―)のことが描かれていることからも、この作品が厳しい戦時統制下に書かれたものであることがわかります。
ただし、意識的に戦争を非難している作品、というわけではないように思いました(もちろんそれを読み取れないことはありませんが)。
この小説から強く感じられるのは「地縁に基づく村の共同性」みたいなものです。テンニースさんのゲマインシャフトという言葉を連想してしまいます。現代日本的にいうならば、近所付き合いの密接な古きよき村社会、とでもなるでしょうか。
ゲマインシャフト的な共同体の在り方が希薄になっている現代(ゲゼルシャフト―利益社会―)だからこそ、古きよき村社会のよさみたいなものを思うことがときどきあります。
子供の連れ去り事件があったときに、どうやって地域で協力してこういった犯罪を防げばよいのだろうかとか、おひとりさまの増加する現在(将来)、とくにご高齢のひとたちの孤独とそれによって生じうる問題をいかにすれば改善できるのだろうか、みたいな。
とはいえ『ごんごろ鐘』の村のような「古きよき村社会」に戻ることは不可能でしょうし、あるいはこういった諸問題はゲゼルシャフト化した社会だからこそ増加していることがらであって、だからといってそれを古いものに戻せばいいという考えには頷けないところがあります。
「うん、そうだ。何でもそうだよ。古いものはむくりむくりと新しいものに生まれかわって、はじめて活動するのだ。」
上の引用は物語のラストで、「僕の兄さん」が言っているセリフですが、これに対して僕は――
兄さんはいつもむつかしいことをいうので、たいてい僕にはよくわからないのだが、この言葉は半分ぐらいはわかるような気がした。古いものは新しいものに生まれかわって、はじめて役立つということに違いない。
――ということを思っていて、やはりこの部分がこの小説のもっとも重要なところなのではないかと、強く共感しました。
『半分ぐらいはわかるような気がした』
まさに、という感じです。
古いものは新しいものに生まれ変わってこそ役に立つ、しかし古いものにもいいところはある、とはいっても新しいものの利便性を捨てて古いものに戻るのは難しい、「半分ぐらいはわかるような気がした」みたいな。
まあ、簡単に言ってしまえば、村のみんなでごんごろ鐘とのお別れを惜しんだり、子供たちが乳母車のお爺さんを町まで連れて行ってあげたり、古きよき村社会もなんだかすてきだなあ、といった感じなのですが(とはいえ便利な生活を捨ててまでそこに住めるのかと聞かれたら、――いわずもがな)。
以下、印象に残ったところを書き残しておきます。
人間のぜんそくが鐘にうつるというところが変だ。それなら、人間の腸チブスが鐘にうつるということもあるはずだし、人間のジフテリヤが鐘にうつるということもあるはずである。それじゃ鐘の病院も建たなければならないことになる。
――ごんごろ鐘の名前の由来についての「僕」の論理的思考。「病院も……」のあたりの子供らしい理屈もおもしろいです。
僕はいまさら、この大きくもない鐘が、じつにたくさんの人の生活につながっていることに驚かされた。
――ごんごろ鐘との別れを惜しんで、尼寺に集まった村人たちを見ての「僕」の感想。それぞれの人にそれぞれの鐘との思い出があります。それは村人全員で共有できる思い出でもあるのです。ここに地縁的なつながりを強く感じました。
いつも下からばかり見ていた鐘が、こうして横から見られるようになると、何か別のもののような変な感じがした。
――ものを見る角度や見方を変えることが、ときに大事な場合があります。
その時、黄色い蝶が一つごんごろ鐘をめぐって、土塀の外へ消えていった。
――自然的な情景描写が、人々と鐘との別れの哀惜を思わせます。秀逸な表現技法だと思いました。
トテチテタア
――ラッパの音を表すオノマトペ。……とてちてとてちて。
いつかお父さんが、日本ほど自然の美にめぐまれている国はないとおっしゃったが、ほんとうにそうだと思う。
――僕もそう思う。日本の四季を思う。
何も心配する必要はなかった。昨日通ったばかりの道でも、少しも退屈ではなかった。心に誠意をもって善い行いをする時には、僕らはなんど同じことをしても退屈するものではない、とわかった。
――子供たちのやさしさ、すなおさ。そして地縁的なつながりが、子供たちに大切なことを教えてくれるということ。すばらしいと思いました。
読書感想まとめ
古いものは新しいものに生まれ変わってはじめて役に立つ。
半分くらいわかる気がした。
(ところで、「僕は転生してはじめて生きているような気がした」とか言い換えてみると、なんだかラノベっぽくないですか?)
狐人的読書メモ
みんなに愛されたごんごろ鐘は幸せだっただろうか?
・『ごんごろ鐘/新美南吉』の概要
1942年(昭和17年)10月、童話集『おぢいさんのランプ』(有光社)に所収された。新美南吉さんの少年小説。日記形式。前近代の村という共同性の尊さ。庶民的感情の良し悪し。
・たたら
足で踏むふいご(たたら)を使って炉に空気を送ってなされる製鉄法。たたら製鉄。たたらを踏む。たたら場。もののけ姫を思い出した。
以上、『ごんごろ鐘/新美南吉』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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