土足のままの文学/織田作之助=凄い小説を読んで落ち込むことある?

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狐人的あいさつ

コンにちは。狐人コジン 七十四夏木ナナトシナツキです。

読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?

そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。

土足のままの文学-織田作之助-イメージ

今回は『土足のままの文学/織田作之助』です。

文字数1200字ほどの随筆。
狐人的読書時間は約4分。

凄い小説を読んだとき「こんな小説を書きたい! 新しいスタイルにチャレンジしたい!」って思える? 僕はなんだか落ち込んでしまう。それが才能の差ということなのかも……

未読の方はこの機会にぜひご一読ください。

狐人的あらすじ

(今回は全文です)

『土足のままの文学/織田作之助』

僕は終戦後間もなくケストネルの「ファビアン」という小説を読んだ。「ファビアン」は第一次大戦後の混乱と頽廃と無気力と不安の中に蠢いている独逸の一青年を横紙破りの新しいスタイルで描いたもので、戦後の日本の文学の一つの行き方を、僕はこの小説に見たと思った。終戦後大作家まで自分の作品を棚に上げたもっともらしい文学論を書いているが、凡百のそれらの文学論よりは「ファビアン」一冊の方が、どれだけ今後の文学の行き方を示しているか判らないくらいだ。

「ファビアン」を読んで、次にジョイスの「ユリシーズ」を読み、僕は更に新しい文学の行き方が判り、僕らの野心とは僕らの「ファビアン」を作ることであり僕らの「ユリシーズ」を作ることにあると納得した。

日本の習慣では、土足のままで家の中へはいらない。だから、文学も土足のまま人生の中へ踏み込んで行くような作品がない。きちんと下駄をぬぎ、文壇進歩党の代弁者である批評家から、下足札を貰って上るような作品しかない。「ファビアン」や「ユリシーズ」は土足のままの文学だ。僕は土足のままとまで行かなくても、せめて下足番から下駄を……と言われた時、いや僕ははじめからはだしでして……と言えるような作品を書きたいと思う。

僕はこれからはもう天邪鬼になって、新人がどれだけ巧い作品を書いても、感心しないことにする。泥だらけの靴やちびった下駄のままで書きまくった小説でなければもう感心しない。きちんと履物をそろえて書斎の中に端坐し、さて机の上の塵を払ってから、書き出したような作品に、もはや何の魅力があろう。

これまで、日本の文学は、俳句的な写実と、短歌的な抒情より一歩も出なかった。つまりは、もののあわれだ。「ファビアン」や「ユリシーズ」はもののあわれではない。もののあわれへのノスタルジアや、いわゆる心境小説としての私小説へのノスタルジアに憧れている限り文壇進歩党ははびこるばかりである。といって、自分たちの文学運動にただ「民主主義」の四字を冠しただけで満足しているような文壇社会党乃至文壇共産党の文学も、文壇進歩党の既成スタイルを打ち破るだけの新しいスタイルを生み出す努力をしなければ、いいかえれば作品の上で文壇進歩党に帽子を脱がすほどの新しさを生み出さねば、結局は文学運動に名をかりた一種の政治運動と少しも変らないということになる。

土足のままといっても、しかし、何でもかでも横紙を破り、破目を外し、メチャクチャになれというわけではない。例えばモンテエニュ、彼が自分を語ろうとして自分の内部へはいって行った時、土足のままだったが、足音はしずかだった。ただ僕らはかつて僕らが忘れていた「人間」を、僕らの文学の中へ呼び戻すために、まずモンテエニュあたりから勉強のし直しをはじめるとしても、しかし、今日僕らの文学の足音が少しは乱暴に高鳴っても、致し方はあるまい――ということだけは、今ここで言い切れると思う。

狐人的読書感想

文豪作品を読んでいると、たまにその文豪が影響を受けた小説が出てきたりして、興味を引かれてしまいます。

今回は織田作之助さんが『僕らの野心とは僕らの「ファビアン」を作ることであり僕らの「ユリシーズ」を作ることにあると納得した』とまで言っていますね。

ケストネル(ドイツの作家、エーリッヒ・ケストナー)の『ファビアン』は、第一次世界大戦後のワイマール共和国期ドイツ、退廃的な空気が蔓延していたベルリンで生活するファビアンが、そんな時代と社会を痛烈に風刺している小説だそうです。

ジョイス(アイルランドの作家、ジェイムズ・ジョイス)の「ユリシーズ」は、ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』が下敷きとなっており、冴えない中年男のブルームを中心に、ダブリンのとある1日(1904年6月16日)が克明に描かれた小説だといいます。

どちらも長編で、翻訳小説は読みづらい印象を持ってしまい、なかなか手にするのが億劫に感じてしまうのですが、織田作之助さんがそこまで称賛する作品がどのような小説なのか、一度読んでみたいという思いになります。

織田作之助さんは『ファビアン』や『ユリシーズ』を「土足のままの文学」だと評していて、これはこの随筆のタイトルにもなっているので、まさに今回の主題といって間違いないでしょう。

「土足のままの文学」というものがいったいどのような文学なのか、僕には図りかねるところもあるのですが、『……既成スタイルを打ち破るだけの新しいスタイルを生み出す努力をしなければ……』ということが、主に言いたいことなのかなあ、という気がします。

小説を書くときって、やはり基本的な文体や様式に気を取られてしまい、そちらが気になってなかなか書き進められないことがあるように思うのですが、あまりそんなことを気にせず、書きたいように書いてみれば、案外おもしろい作品ができ上ったりするものなのかなあ、という感じはなんとなく思うことがあるんですよね(実際にできたと思うことはありませんが……)。

とはいえ、この随筆でいわれている『土足のままの文学』というのは、また違ったこと(もっと高尚なこと)をいっているのだと思います。

なにごとも、新しいスタイルを生み出すというのは、時代を経るごとに難しくなっていくのは、当然の如くいえるのでしょうね。

しかしながら、時代ごとに「新しいな」と感じさせられる作品がたしかにあって、そういう才能に対しては「本当に凄いな」と、感嘆することしかできません。

織田作之助さんはそういった才能に触れて、自分たちもその才能を見習い、そういった作品を生み出していかなければならないといっているわけなのですが、それもまた、僕からすると凄いことに思えるんですよね。

僕はおもしろいとか凄いなと思える小説に出合ったときには、どちらかといえば、「こんな小説自分には絶対書けない……」といった諦めのような気持ちが強いような気がします。

いい小説を読んだとき、織田作之助さんのようなポジティブというか、バイタリティある感想が持てるようになりたいと思った、今回の読書感想でした。

読書感想まとめ

凄い小説を読むと、自分の書いたものと比べて、落ち込むことが多いです。

狐人的読書メモ

・文豪と呼ばれるほどの才能を持った人でも、やはり他の小説に感化されることはある。そんなときに落ち込むのではなくて「自分もこういう小説を書こう!」と前向きに思えるのが、あるいは才能なのかもしれないと感じた。

・『僕はこれからはもう天邪鬼になって、新人がどれだけ巧い作品を書いても、感心しないことにする。泥だらけの靴やちびった下駄のままで書きまくった小説でなければもう感心しない。きちんと履物をそろえて書斎の中に端坐し、さて机の上の塵を払ってから、書き出したような作品に、もはや何の魅力があろう。』――なんとなく印象に残った。

・『土足のままの文学/織田作之助』の概要。

1947年(昭和22年)1月、『文学雑誌』にて初出。『定本織田作之助全集 第八巻』(文泉堂出版、1976年―昭和51年―)に収録。エーリッヒ・ケストナーの『ファビアン』、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』に見る文学の未来。文学の新しいスタイルに挑戦し続けること。凄い小説を読んだときの考え方に、文豪の才能を感じさせられた作品。

以上、『土足のままの文学/織田作之助』の狐人的な読書メモと感想でした。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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