みみずく通信/太宰治=気さくで面倒見のよい太宰治さん?

狐人的あいさつ

コンにちは。狐人コジン 七十四夏木ナナトシナツキです。

読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?

そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。

みみずく通信-太宰治-イメージ

今回は『みみずく通信/太宰治』です。

文字数6000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約19分。

みみずくはふくろうの一種。
ふくろうが手紙を運ぶ小説といえばハリー・ポッター。
では、みみずく通信とは?
太宰治による紀行文。狐人的にはキャラ小説。
太宰治さんに相談しに行きたい。

未読の方はこの機会にぜひご一読ください。

狐人的あらすじ

太宰治が新潟の高校へ講演会に行った話を書簡体形式(手紙)で綴っている。到着した新潟の街は寂しい印象だったようだ。

学校で、案内の生徒たちに、芥川龍之介が講演にきたときは講堂の彫刻を褒めてくれた、と聞いて、自分も何かを褒めなければならないのかと、きょろきょろしたりする。

講演会では『思い出』という初期の作品を一章だけ読み、私小説、告白の限度、自己暴露の底の愛情などについて語る。さらに『走れメロス』を読んでは、友情、素朴の信頼についても語る。

座談会の時間に質問はあまり出ず、「ありがとう、すみません」はそう感じたときに言うべきであること、卑屈は恥にあらず、被害妄想や罪の意識について、思いつくままに話した。

無事に講演会が終わると、生徒の有志たちと海を見に行き、イタリヤ軒という洋食屋で食事をした。生徒十五、六人と、先生が二人。その頃になると生徒たちもだいぶ打ち解けてきていた。

『自分ひとり作家づらをして生きている事は、悪い事だと思いませんか。』

『それは逆だ。他に何をしても駄目だったから、作家になったとも言える。』

『じゃ僕なんか有望なわけです。何をしても駄目です。』

『君は、今まで何も失敗してやしないじゃないか。駄目だかどうだか、自分で実際やってみて転倒して傷ついて、それからでなければ言えない言葉だ。何もしないさきから、僕は駄目だときめてしまうのは、それあ怠惰だ。』

生徒たちとわかれ、酒を飲みに行くと、そこの女のひとに剣道の先生に間違われる。明日は佐渡ヶ島へ行ってみるつもりだという。講演はあまり修行にならなかった。剣道の先生も、一日でもうたくさん。

みみずくの、ひとり笑いや秋の暮(其角の俳句)

(『佐渡』へ続く)

狐人的読書感想

前回、太宰治さんの読書感想を書いた『佐渡』の前日譚にあたるお話です。そのとき僕は『佐渡』を太宰治さんのキャラクターを楽しむキャラ小説と勝手に位置付けてしまったのですが、本作も同じように楽しみました。

案外とっつきにくそうな人が、内心では人の反応を気にしてきょろきょろしてしまっていたり、生徒のひとりも『太宰さんを、もっと変った人かと思っていました。案外、常識家ですね。』などと言っているので、太宰治さんも勘違いされやすい人だったのかな、などと想像しました(あるいは作家一般に対する印象からなのかもしれませんが)。

作家さんの講演会って、自分の作品を朗読するのが普通だったんですかね? 自信作や評価の高い代表作なら自慢したいとかみんなに知ってほしいとかで、朗読してもいいかな、って気になるのでしょうか? なんか初期の作品については、恥ずかしいからあまり話したくないみたいなことも聞いたことがあります。

自分だったら、たとえ自分の作品でなくとも、人前で朗読するというのは恥ずかしく感じられてしまうのですが、文豪と呼ばれる太宰治さんがそれをしていたことには純粋に驚きました。その点も、やはり気さくな人だったのかな、などと意外な感じがしました(あるいはお金のためにしかたなく?)。

朗読といえば、文豪作品を朗読するところをYouTubeにアップしていたり、声優さんなどが小説を朗読してくれるアプリなどもあって、興味を覚えたことがあります。同じ時間をかけるなら、やはり読むほうがいいと考えたので、実際に聞いたことはないのですが、ふと試しに聞いてみたく思いました。

『思い出』から、私小説、告白の限度、自己暴露の底の愛情。『走れメロス』から、友情、素朴の信頼。こちらも狐人的に興味を覚える内容で、聞いたみたく思いました。

座談会の内容は、「ありがとう、すみません」はそう感じたときに言うべきであること、卑屈は恥にあらず、被害妄想や罪の意識について。とくに『ありがとう、すみません」はそう感じたときに言うべき』というところには感じるところがありました。

日本人はみんなそうかもしれませんが、何かと「すみません」って言っている気がするんですよね。

「ありがとう」という場面でも、思わず「すみません」って言ってることが多いような気がしていて、相手としても謝られるより感謝されたほうがうれしいんじゃないかなあ、などと考えるのですが、反射的に「すみません」って言ってしまっていて、いつも不思議に思うんですよね。

そんなとき「ありがとうございます」って言えばよかったと、いつも後悔するのですが、たぶん「ありがとう」だけだとタメ語みたいになってしまって、「ありがとうございます」は一言で言うには長くなり過ぎてしまって、なので短くて敬語っぽく聞こえる「すみません」を使うのかな、とか自己分析しているのですが、どうなんでしょうね?

(その点は、敬語や丁寧語をあまり使わないという英語圏の人たちを見習うべきなのかもしれません)

10文字(ありがとうございます)と5文字(すみません)で、たった5文字よけいに言うだけの手間と時間をも惜しむ自分って……と、なんだかなさけないような気持ちにいつもなるのですが、ちゃんと「ありがとうございます」と言おうとしつつ、ついつい反射的に「すみません」と言ってしまう今日この頃です。

『何もしないさきから、僕は駄目だときめてしまうのは、それあ怠惰だ。』という生徒へ向けてのアドバイス的なセリフは本作で一番印象に残りました。

その後、『大学へはいって、くるしい事が起ったら相談に来給え。作家は、無用の長物かも知れんが、そんな時には、ほんの少しだろうが有りがたいところもあるものだよ。勉強し給え。おわかれに当って言いたいのは、それだけだ。諸君、勉強し給え、だ。』とも言っていて、面倒見のよさそうな一面も垣間見えるんですよね、太宰治さん。

ひょっとしたら社交辞令だったのかもしれませんが、それだけでもなかったようにも思えて、破滅的な人生や代表作(『人間失格』)などのイメージが先行しがちな太宰治さんですが、実際にはユーモラスで裏表のない、話しやすい人だったのかもしれないな、などと改めて実感させられました。

僕がもしその生徒だったら、相談に行ってみたい気がしますが、実際に行ったら迷惑に思われてしまいますかね、とか想像してみると、絶対にいけないだろうな、などと思いましたが、どうでしょうね?

読書感想まとめ

やっぱり太宰治さんのキャラクターを楽しむキャラ小説。気さくで面倒見のよい太宰治さん? 僕も相談に行ってもよいでしょうか?

狐人的読書メモ

・本作では校長室が応接室として使われていたが、「なんで学校って校長室が玄関のすぐそばにあるの?」という雑学の答えがこれ。校長室は来訪者を迎える応接室の役割もあるため、正面玄関や受付の近くに配置されることが多い。文部科学省が「高等学校施設設備指針」で指導している。

・本作は書簡体形式の小説であるが、こんな手紙をもらえたら楽しいだろうなあ、とふと思ったのだが、そう思えるということはすでにそれは小説だという証なのだろうか? 素朴な疑問メモ。

・本作で登場する「イタリヤ軒」を検索してみたら、「ホテルイタリア軒」がヒットした。母体は「株式会社イタリア軒」で、レストラン以外にもいろいろと展開しているらしい。

・『みみずく通信/太宰治』の概要

1941年(昭和16年)『知性』にて初出。太宰治による紀行文だが、キャラクター小説の色が濃いと狐人的には思っている。続編的作品に『佐渡』。ラジオで放送されたという「甘い短編小説」というのは、1940年(昭和15年)11月5日、JOAKで放送された『ある画家の母』であるらしい。ちなみにミミズクはフクロウの一種。

以上、『みみずく通信/太宰治』の狐人的な読書メモと感想でした。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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