狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『和太郎さんと牛/新美南吉』です。
文字数14000字ほどの童話。
狐人的読書時間は約40分。
のどかなほのぼの村ストーリー。
しかしその奥に秘められしテーマは深いです。
ゲマインシャフトとゲゼルシャフト。
生理的嫌悪感からくる差別は根絶できるのか?
ちゃんと話しよう!
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
牛ひきの和太郎さんの牛は、よぼよぼの年とった牛だったが、大変よい牛だとみんなからいわれていた。和太郎さんはお酒が好きで、仕事帰りに茶店に寄ると、いつもべろべろに酔っぱらってしまうのだが、牛は和太郎さんの乗った荷車をひいて、ちゃんと家に帰ってくれるのだ。
和太郎さんには美しくて働き者のお嫁さんがいた。しかし、お嫁さんにはただ一つ、和太郎さんの気に入らないところがあった。それは和太郎さんのお母さんの潰れた片目を見ると、気持ち悪くなってご飯が食べられないからといって、食事中いつも壁を向いていることだった。
和太郎さんのお母さんはそれを聞いて奉公に出る決心をするが、年老いた母を追い出すようなマネができるはずもなく、和太郎さんはお嫁さんと別れた。以来、和太郎さんはお嫁さんを望まなくなった。だけど子どもはほしいと願っていた。
人間は人間にはお礼をするが、牛や馬にはしない――和太郎さんはいつも世話になっている牛にお礼がしたいと、日頃から考えていた。
ある日、酒だるを町まで運ぶ仕事の途中、たるのフタが外れてお酒が地面に流れ出してしまった。そこで和太郎さんは、日頃のお礼のつもりで、牛にこぼれたお酒を舐めさせた。
さて村への帰り道、今日ばかりはお酒を控えようと決心していた和太郎さんだったが、やっぱり飲んでしまった。
夜の十一時、いつもの時間を過ぎても帰ってこない息子を心配して、和太郎さんのお母さんは駐在所へ相談に行った。ひょっとして、山の狐に化かされたのでは――お巡りさんと村の青年団とで、和太郎さんの捜索が行われた。
明け方、みんなへとへとで駐在所の前に座り込んでいると、牛車が一台やってきた。和太郎さんだった。村人たちの話を聞いて、事の次第を知った和太郎さんはみんなに謝った。
和太郎さんの話では、牛も自分も酔っぱらっていて、ほとんど何も覚えていないのだが、立派な座敷のある不思議な場所に行っており、耳のとがった太夫が一人、胡弓をひいてくれたという。
帰ってきた和太郎さんの牛車の荷台には、小さな籠が乗せられていた。籠の中には男の赤ん坊が入っていた。和太郎さんは天からのさずかりものだ、といって喜び、その赤ん坊に和助と名付けて育てた。
お母さんとよぼよぼの牛は一昨年なくなり、いまでは和太郎さんはおじいさん、和助は立派な牛飼いになっている。
狐人的読書感想
今回は、一本芯が通ったテーマみたいなものは見出しにくく感じました。のどかでほのぼのするような、単純に一つの物語として楽しめればいいのかなあ、という気がします。
とはいえ、やはりそれだけではなくて、ところどころにほのめかすように、大事なことや考えさせられることが書かれているのが、さすが新美南吉さんの作品だと思えます。
以下、そんな考えさせられたところについて、いくつか綴っておきます。
まず、次郎左エ門さんというキャラクターが印象に残りました(とかいいながらあらすじでは全カットしていますが)。
次郎左エ門さんは若い頃東京で働いていた経験があり、そのため理屈が好きで仕事が嫌いになって村に戻ってきた人物ですが、この「理屈が好きで仕事が嫌い」というあたりに思わされるところがありました。
これが新美南吉さんの、というか当時の都会の、印象だったのかなあ、みたいな。たしかに「村人は肉体労働をする働き者」で、「都会人は頭脳労働をする理屈屋」というイメージは受け入れやすいもののような気がします。
「理屈が好きで仕事が嫌い」という表現には、都会の資本主義や合理主義について、何か思うところがあったのかなあ、などと想像してしまいますが、ただの深読みかもしれません。
関連して思うのは「村社会のよさ」が全体的に描かれている作品だということです。
登場人物である村人が、基本的にみんな素朴でやさしい人たちなんですよね。人付き合いやご近所付き合いが希薄化しているといわれる現代だからこそ、より村のよさを実感できるんじゃないかな、と思います(その意味でゲマインシャフトとゲゼルシャフトを意識できる作品じゃないかな、とも思います)。
つぎに、和太郎さんとお嫁さんの別れのエピソードについてです。
息子夫婦の仲のために、自分が家を出ていこうとした和太郎さんのお母さんの姿勢はいじらしいというか、いいお母さんさんだなあ、などと単純に思わされてしまいます。
現代であればそんな母親に甘えてしまい、結局お嫁さんをとってしまいそうですが、しかし和太郎さんはお母さんを選び、お嫁さんとは別れてしまいます。
元はと言えばお嫁さんの行動に問題があっての話なので、和太郎さんの決断はしごく当然のことのように思ったのですが、しかしお嫁さんが完全に悪いとも言い切れないところが難しいと感じています。
はじめ、お嫁さんがお母さんの潰れた目を気持ち悪いと思ったのは差別だ、と僕は感じたのですが、しかし傷口や血を見るのがどうしてもダメだ、という人はいるわけで、そういった生理的嫌悪感というものは本能的なものであって、努力や訓練ですぐに改善できるものではありません。
そうした生理的嫌悪感が差別につながることはあっても、それ自体を差別だと言い切ることはできず、しかもお嫁さんはお母さんを傷つけないようにそのことを黙っていて、ずっと壁を向いてご飯を食べていた行いは気遣いのようにも思えてきて、だったらいきなり別れを切り出した和太郎さんが横暴だ、という気がしてきます。
昭和の亭主関白的な時代背景が反映されているのなあ、などとも考察できるのですが、もっと三人できちんと話し合うべきだったのではないか、と思います(たとえば、お母さんが眼帯をすれば済むだけの話ですしね)。
三人ともが自分の想いだけで行動した結果の悲劇、という感じがしました。こういった人と人とのすれ違いは、じつはけっこう身近にあるように感じています。
家族、友達、恋人――たとえ相手に失礼であったとしても、気になったことはきちんと伝えて、話し合わなければいけないんだな、と思いました。
もしそれで縁が切れてしまったら、それだけの関係だったのだと納得もできそうですが、和太郎さんとお嫁さんの別れは納得しがたく、また悲しいものだと感じました。
長くなってきたので、以下は印象に残った部分を箇条書きに引用して、メモ程度に思ったことを書いておきます。
人間はほかの人間からお世話になるとお礼をします。けれど、牛や馬からお世話になったときには、あまりいたしません。お礼をしなくても、牛や馬は、べつだん文句をいわないからであります。だが、これは不公平な、いけないやり方である、と和太郎さんは思っていました。
まさにそのとおりだと思いました。結局人間が心からお礼をすることって、意外と少ないのかもしれませんね。相手がお礼を求めている、それが感じられるからお礼をする、そんなことばかりという気がしてしまいます(もちろんそんなことばかりではないわけですが)。
子どもにゃ両親がなきゃならん。
次郎左エ門さんが和太郎さんに言ったセリフの一部です。たった一言に、思わされますねえ。子どもにはもちろん両親がいたほうがいいと思いますが、かといって両親がいる子どもが必ず幸せとも限らない、シングルでも立派に幸せな子どもを育てている親だっている――全般論では語れないところですね。
「世の中は、りくつどおりにゃいかねえよ。いろいろふしぎなことがあるもんさ」
たしかに。世の中理屈通りにはいかない、不思議な事象についてよりも、感情面との対比で思わされた部分でした。
以上です。
読書感想まとめ
何も考えずに楽しめばいい物語。しかし考えさせられるところはたくさんある。ゲマインシャフトとゲゼルシャフトとか、人は気を遣ってばかりじゃなくて言いたいことはちゃんと言うべきだとか、そういうことです。
狐人的読書メモ
やさしさ、というものはなんなのだろう、といったことも考えずにはいられない作品だった。
・『和太郎さんと牛/新美南吉』の概要
1943年(昭和18年)9月30日、『花のき村と盗人たち』にて初出。メインテーマとなるようなものは感じ取れなかったが、メインテーマにしてもおかしくないことがたくさん書かれてある。
以上、『和太郎さんと牛/新美南吉』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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