狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『百姓の足、坊さんの足/新美南吉』です。
文字数15000字ほどの童話。
狐人的読書時間は約41分。
教訓、食べ物を粗末にしない、謙虚に生きる。
一見簡単なようで、しかし突き詰めると奥深し。
食品ロス、ベジブロス、生き方、
嫁姑問題、子供の体罰、現世利益と来世利益。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
貧しい百姓の菊次は、雲華寺の和尚のお供をして、米初穂(秋の米の寺への寄進)を集めて回っていた。夜になった帰り道のこと、菊次は椀一杯の米を転んで道にまいてしまう。
菊次が慌てて米を集めようとすると、和尚は「土がまじってだめだ」と言って、その米を足で蹴散らした。菊次も調子に乗って和尚のまねをした。
それから二日後、菊次が小さな家に帰ると、母親と嫁がケンカをしていた。なんでも菊次の息子が二粒の飯をこぼし、菊次の母がそれを拾って食べさせようとしたところ、汚いからとそれを拒んだ。
菊次の母が折檻すると、今度は嫁がそれに腹を立てた。菊次は嫁の味方をして、米を粗末にしてもばちなど当たらない、とうそぶいた。その直後、菊次の左足に激痛が走った。
菊次の左足は翌日以降も痛み続けた。ばちが当たったのだ。では、和尚は? なんともない。参拝者の前で「物は何でも大事に……」などとぬけぬけと説教さえしている。菊次は不公平だと天をうらんだ。
その夜、菊次は幻を見た。それは黒い土にこぼれた白い米の幻だった。菊次は百姓だ。米を育てる苦労、おいしさ、本当の値打ち、それらを真に知っているからこそばちが当たったのだ。それはありがたいことだった。百姓でない和尚にはわかるまい。菊次は一椀の米の百姓に、天に、地に、母に、いまは亡き父に、すべてに詫びた。
翌朝、菊次の左足の痛みはすっかりなくなっていたが、力は入らなくなっていた。痛みがなくなっただけでもありがたかった。菊次は天に感謝した。その瞬間、菊次の心は美しい心に生まれ変わった。
その後、菊次と和尚はそれぞれの人生を生きた。菊次は貧しい百姓のまま、毎日せっせと働いた。和尚はそれからも足を痛めることはなく、いつも元気で、高慢で、酒臭い息でお経を読んだりしていた。
二人は同日に亡くなると、菊次は極楽への道を歩き、和尚は地獄への道を進んだ。
狐人的読書感想
やっぱり新美南吉さんの童話はすごくいいですね。大切なことがたくさん書かれているなと感じます。
この作品も、表面上の教訓はとてもわかりやすいもののように思います。
「お米の一粒まで大切にしなければならない」、「謙虚に生きなければならない」といったところでしょうか。
現代は「飽食の時代」、などといわれることもありますが、とくに近年の日本では「食品ロス」ということが深刻な社会問題として取り沙汰されていますよね。
食品ロスとは、まだ食べられるもの(売れ残り、食べ残し、期限切れ食品など)が廃棄されることですが、日本は食料廃棄率が世界一ともいわれているのはご存じでしょうか?
わかりやすく試算してみると、日本人は一人当たり毎日おにぎりを1~2個捨てている計算になるそうで、考えさせられるところがあります。
食品メーカーなどは賞味期限を延長するなどの対策を行っているようなのですが、しかしこればかりは個人個人の意識の問題が大きいのかなあ、という気がします。
思えば、野菜の皮とか芯だとか、食べられないものだと決めつけて、平気で生ゴミとして捨てたりしていますが、それも突き詰めていくと当たり前のことじゃすまされないのかもしれません。
最近は、野菜くずで作る「ベジブロス」だとかもよく聞きますし、一人一人がなんらかの工夫や意識を心がけて、食品ロスをなくしていかなければならないのでしょうね。
とはいえ、普段なかなかそんなことを意識する機会はないように思います。
賞味期限はおいしく食べられる期限なんだから切れても食べられるんだよ、と言われてみてもなんとなく躊躇してしまうところはありますし、普段捨てていたものを急に食べようとしてもなかなかそんな気になれません。
菊次が悟ったように、「お米を作る農家の人が、どれほど汗を流し苦心するか」、そのことを思えば自然食べものを粗末にしないようになるのかなあ、という気はするのですが、どうしても工場などの大量生産を思い浮かべてしまい、それだって働いている人たちの苦労があるわけなのですが、そんなことなどは蔑ろにしてしまいがちです。
そういえば、ホコリのついたご飯を子供に食べさせるのが正しいのか否か、というところも現代的に考えさせられるところですよね。
菊次のお母さんの言うことはもっともなことですが、だからといってホコリのついたご飯を食べさせて子供が病気にでもなったら、というのはどうしても考えてしまいますし、子供がそれを食べるのをいやがったからといって体罰をしてもいいのか、というのも賛否両論ありそうに思います。
結局、食べ物を大切にしようといいたくて、だけど具体的にどうすれば……、となると個々人の意識によるしかなく、しかしその個々人の意識というのが一筋縄では解決できない問題だという、何が言いたいのかよくわからない感想になってしまいました。
続いての「謙虚に生きなければならない」というところについても、同じところに着地しそうな予感がしますが、一応書いておきたいと思います。
菊次の姿勢はまさに人が見習うべき理想の生き方だという気がします。
ついつい調子に乗ってしまい、過ちを犯してばちが当たり、しかし人間不幸な目にあっても仲間がいるとほっとする、ということで、同じ間違いを犯した和尚の不幸を望んでみたけれど、それが叶わず天をうらみ、そして最終的には自分の悪かったことを悟って生涯謙虚に生きた、というのは言うまでもなくすばらしいことのように思えます。
しかしながら、菊次はずっと貧しい百姓のまま、左足も不自由になってしまい、その善行が現世で報われた、とはとても言えないのではないでしょうか?
あの世に行ってはじめて、菊次は極楽へ昇るという、和尚は地獄へ落ちるという、それぞれ報いを受けるわけなのですが、これってはたして、どっちが幸せといえるんだろう? と、疑問に思ってしまいました。
あの世で極楽へ行って幸せになる、というのは仏教思想だというのはなんとなくわかるのですが、僕はどうしても現世利益を優先して考えてしまいます。
それもやっぱり昔と現代の違いであって、昔は百姓はどうしたって百姓で、自分たちが作ったお米の大半を権力者に搾取され、現世ではどうあがいたって幸せは望めないのだから、せめてあの世では極楽へ行きたい、という切実な願いの表れだったのだろう、と想像できるのですが、それでも現世で幸せになれなければ意味がないのでは……、とか思ってしまうんですよね。
それは「幸せを望める現世に生きている現代人の幸福」だと捉えるべきなのかもしれません。もちろん、現代人には現代人の不幸というものもあって、現世に絶望すればあの世や来世で……、などと望む気持ちは理解できます。
……なんか異世界転生系のラノベやアニメを彷彿とさせられるところですが。
まあ、無宗教者ゆえに、科学全盛のこの時代ゆえに、あの世や極楽浄土というものを信じていないからだ、というところも大きいのかもしれません(人が逝くところは無である、みたいな)。
とはいえ、現世で幸せになるのと、あの世で幸せになるの、どっちがいいんでしょうね? 逆に言えば現世で不幸になるのと、あの世で不幸になるの、どっちがいいんでしょうね? ――ということはどうしても想像してしまいます。
あなたはどうですか?
読書感想まとめ
表面的な教訓はとてもわかりやすいです。
・お米の一粒まで大切にしなければならない
・謙虚に生きなければならない
しかしながら、これらを突き詰めて考えてみると、僕にはかなりむずかしい気がしました。
狐人的読書メモ
嫁姑問題と子供への体罰問題についてはもうちょっと語れたかもしれない。子供と猫は甘やかすほど増長する? 菊次のお母さんの主張は、現代ではなかなか受け入れにくいところがあるが、一理あるのは間違いないことのように思う。
・『百姓の足、坊さんの足/新美南吉』の概要
1943年(昭和18年)9月、『花のき村と盗人たち』にて初出。あの世オチは賛否両論ある気がするが、否定派が現代では多いのではなかろうか?
以上、『百姓の足、坊さんの足/新美南吉』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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