狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『路上/梶井基次郎』です。
文字数4000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約11分。
近道を発見して嬉しい!
転んだの見られたら恥ずかしい!
スリルを求めてたまに危ないことしちゃう!
梶井基次郎さんは
たぶんそんなこと言ってるわけじゃないんでしょうが……。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
あるとき「自分」は、これまで使っていたM停留所と、別のE停留所では家からの距離がさして変わらないことに気づき、しかしE停留所から電車に乗ったほうが、友人の家までかなり近いことを発見して喜ぶ。
ある日曜日、「自分」は訪ねて来た友人とE停留所までの道を歩いていた。ふとした思いつきから、普段は通らない崖からの道を行ってみる。それは赤土の田舎道だ。いつもと違う風景、ちょっとした冒険、旅情を感じる。崖からの道は近道だったので、以来「自分」はその道を通うようになる。
ある雨上がりの日のこと、「自分」は学校の帰り道にその崖からの近道を歩いていた。雨に濡れた赤土はやわらかく、とても滑りやすくなっていた。危ないから引き返そうか、と「自分」は考えるが結局近道を行くことにする。
一歩足を踏み出した瞬間、「自分」は転ぶに違いないと思い、そしてやはり足を滑らしてしまう。起き上がろうとすると身体はズルズルと傾斜を滑っていく。ようやく立ち上がったとき、「自分」はなぜか崖道をスキーのように滑り下りる。もしうまく止まらなければ、崖の鼻から飛び出してしまうにもかかわらず――。
しかし「自分」の足は崖の鼻で止まった。辺りを見回したが、もちろん誰も見ていなかった。嘲笑ってもいい、誰かがいましたことを見ていてくれたら――なんだか悲しいような、寂しいような思いがした。
それからの帰途、「自分」はこのことを小説に書かないではいられない、と強く思った。帰ってカバンを開けてみたら、入りそうもない泥の塊が一つ入っていた。それは本を汚していた。
狐人的読書感想
梶井基次郎さんはやっぱりなんかすごいな、というのがいつもながらの感想ですね。なんとなくわかるような、だけどやっぱりわからないような、そんなことが書かれているふうに感じました。
読む人によっては共感できるところばかりであったり、あるいはまったくわからないといった感想になるのかもしれませんが、こうした感覚的なことを明瞭な文章で残せるというのは本当にすごい才能だと思うのです。
『路上』では、日常の中で誰にでも起こりうる出来事が、しかしなかなか起こり得ないのではと思えるような出来事が、いくつか描かれています。
近道を発見してなんか嬉しくなってしまう、みたいな感情は、日常の中でもあり得ることのように感じるのですが、しかし思い返してみると、そういう発見をした経験というのは少ないような気がします。
これもやはり人によるんですかね、車とか運転する人だと、ナビなどで思わぬ近道を発見した、なんてことはよくあるのでしょうか? ちょっと、誰かと話してみたくなりました。
そんな近道を発見して、はじめて歩いているときに感じる「旅情」というのも想像しやすいように感じます。
普段自分が暮らしている街なのに、全然別の場所にいるような、ちょっとした冒険をしているようなワクワクする気持ち、感じたことありますか?
じつはこれも、想像はしやすいように思ったのですが、実際に体験したことは少ないように感じました。
実体験は少ないのに、なんで共感できるんだろう、という疑問がふと浮かんでくるのですが、こうした体験って結構鮮烈なものだったりして、意外と強烈に残っていたりするものなんですかね?
そんなことを考えさせられるような小説が書けるというのは、やはりさすがだなあ、という気がします。
(ちょっとベタ褒めし過ぎかもしれませんが)
足元の悪い崖道で転んでしまったとき、「もうどうにでもなれ!」、ではなかったのかもしれませんが、その道の傾斜をスキーのように滑り下りたというのも、わかるような、わからないような気がします。
そんなことしたことがあるような気がするし、ないような気がします。
傾斜は崖の鼻に通じていたので、それは危険な行為といえるわけなのですが、スリルを感じるためのちょっとした冒険心だったのかな、などと考えると理解しやすいようには思うのですが、なんとなくそれだけではない、深い意味がこのシーンにはありそうなんですよね。
(やはり肺病と関係があるのかもしれません)
しかしながら、ただ単におもしろくなって調子にのっちゃったのかなあ、などと考えてみると、たしかに調子にのってしまったことというのはある気がするんですよね。いえ、たしかにあります。
だからその後、「自分」が誰かに見られていなかっただろうか、と周囲を見回してみた気持ちにはとてもよく共感できました。
もちろん僕の共感は、「恥ずかしい!」という気持ちであって、「自分」の感じた気持ちとはまた別のものだったのかもしれませんが。
そして誰かに見ていてほしかった、というのもちょっとはわかる気がしました。
僕だったら、まずは誰にも見られなかったことをホッと安心するように思うのですが、そのあとの恥ずかしさをまぎらわすためには、あえて誰かに見られていて、なんとなく一緒に笑えてしまったほうがよかったのかな、みたいな。
とはいえ笑えなかったら地獄であることを思えば、やっぱり見られなくてよかったな、という気がしてきますが。
しかしこのときの「自分」が感じていた気持ちというのは、僕の言っているような浅はかなものではないのあろうなあ、ということはなんとなく伝わってきます。
「自分」は自分の危険な行いに、一つの破滅というものの姿を見ていると語っています。たぶんこれはけっこうシリアスなことを言っているんですよね。心の中に潜んでいる隠された願望、みたいな。
だからやっぱり僕はいま的外れな読書感想を書いていて、これは誰にも読まれたくないような気がしてて、だけど誰かに読んでほしいような気もしてて、書かないではいられないと思ったわけではないけれど、やっぱり書いている――というのが今回のオチ。
読書感想まとめ
わかるような、わからないような。
狐人的読書メモ
思えば「書かないではいられない」と深く思う経験というのもなかなかないように思う。小説家、マンガ家――ものを書く仕事をしている人というのはこうした気持ちを強く持っている人たちなのだろうか、などということをふと疑問に思う。
・『路上/梶井基次郎』の概要
1925年(大正14年)、『青空』にて初出。平凡なことが書かれているようで、なぜか強く惹きつけられる小説だった。
以上、『路上/梶井基次郎』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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