狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『南島譚 -03 雞-/中島敦』です。
文字数9000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約26分。
楽しく話していたのに急に黙り込んでしまう。
何か怒らせること言った?
悪いことばかりしてきたくせに善いことをしようとする。
なんで?
結局他人は理解できませんでした。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
その頃の「私」の仕事は、パラオにおける民俗調査のための資料収集だった。そしてその手伝いを頼んだのがパラオ人のマルクープ老人だった。
「私」は魔除けや祭祀用器具などをマルクープ老人に作らせては買い取っていた。マルクープ老人は徐々にそれらの値段を釣り上げていった。
しかし、それに伴って買い取ったものの品質はだんだんと悪くなっていった。よくよく調べてみると、以前買い取ったもののほとんどが粗悪品だった。
ある日「私」は一時の感情の高ぶりからマルクープ老人を厳しく怒鳴りつけてしまう。すると老人は突然石のような無表情になり、「私」の声も存在も認めていないといった状態になる。
それから三十分ののち、ふと我に返った老人は、すうっと「私」の部屋から出ていった。その際、「私」の大切にしていた懐中時計が消えていた。
以後、マルクープ老人が「私」の前に姿を現すことはなかった。
二年後、そのマルクープ老人がふいに「私」のもとを訪ねてくる。
マルクープ老人は不治の病にかかっており、これまで通ってきたパラオ病院に見切りをつけて、評判のいいドイツ人宣教師のところに診てもらいに行きたいのだとか。
だがそんなことを院長に言えばきっと怒られてしまうので、「私」にうまく取り計らってほしいというのだ。
「私」はまさかそのようなことで怒られはしないだろうと思うが、老人があまりに哀れな様子で頼むので、望むとおりにしてやった。
それから三カ月後、「私」のところに三人のパラオ人青年が立て続けに訪ねてきて、雞を置いて帰っていった。
理由を尋ねてみると、それがマルクープ老人の遺言なのだという。三人別々に持たせたのは、盗まれることを考えての配慮だったらしい。
雞は、「私」が病院通いをやめても怒られないようにとりなしたことへのお礼だったのか、あるいは「私」の懐中時計を盗んだことへの償いだったのか。
人間最期には善良になるだとか、人間の性情は一定不変のものではなくて、ときに良くなり悪くもなるだとか――ありきたりな説明では「私」は満足できなかった。
「私」にはパラオの人がまったく理解できなかった。
狐人的読書感想
人種、性別や年齢などにかかわらず、他人のことがよく理解できない、というのはよくあるように思います。
「私」はマルクープ老人(パラオ人)のことをありきたりな理屈では到底理解することはできないと語っているのですが、しかし僕は逆に「なるほどなあ」などと納得させられてしまいました。
人間最期のときにはいい人になるとか、人間の性格は一定不変のものじゃなくて、ときには良くなりときには悪くなる、というのは、たしかにありきたりでよく聞くことではありますが、普段人と接する際に意識していることは少ないように感じました。
いい人はずっといい人で、悪い人はずっと悪い人なのか、といえば決してそんなことはないわけで、いい人でも機嫌の悪いことはあるでしょうし、悪い人でも他人にやさしくすることもあるでしょうし。
だけど普段、なんとなくその人の一面だけを見て、この人はいい人でこの人は悪い人だと決めつけてしまいがちなところが僕にはあるような気がします。
いい人とは仲よくして、悪い人とは距離を置こう、みたいな。
そういった一面的な人の捉え方は、あるいはよくないものの捉え方であるのかもしれません。
――などと日頃の人との接し方を改めて考えさせられる作品でした。
冒頭の前置きの話で、パラオの学校に新任の先生が赴任してきて、生徒たちの前でとても高圧的な挨拶をするシーンがあるのですが、ここにも思わされるところがありました。
先生いわく「最初にバシッとおどしておかないと、のちのちまで抑えがきかんですからなあ」というわけですが、人を強制的に従わせようとする態度には、やはり「私」と同じように僕も違和感を覚えました。
とはいえ「なめられたらおしまい」みたいな気持ちもわかるんですよね。やさしいだけだとつけあがったり調子にのったりする生徒というのはいるわけで、集団を統率することのむずかしさを感じます。
最近では、学校などで体罰や脅しが問題になることがありますが、暴力は間違いなく悪いことではありますが、ただ一概に悪いばかりではないのかなあ、などと考えることもあります。
拳と拳で語り合うではありませんが、叩かなければ伝わらないこともあるにはあるのでしょうし、愛情を持って叩いて、それが相手に伝わればたしかに悪いことではないように思えるのですが、この線引きは相当むずかしく感じてしまいます。
マルクープ老人が「私」に怒られて急に石のようになったシーンも強く印象に残りました。
「私」にはこれが不思議でならない、といった感じでしたが、なんとなく理解できるような気がするのは僕だけなのですかね?
イヤなことがあったとき、自分の心を外界からシャットアウトするというのは、あたりまえの人の心の防衛機能のように感じました。
ただし、「私」はマルクープ老人以外の別の老人と話していたときにも同様の経験があって、そのときはずっと楽しく会話していたのに、突然老人が石のように押し黙ってしまい、以後会話が再開されることはありませんでした。
それまではとても楽しく話していたのに、何か怒らせるようなことを言ってしまったのではないか、気に障ることを言ってしまったのではないか、などと「私」はあれやこれやといろいろ気にするのですが、たしかにこの状況は戸惑いますよね。
どこか自閉症をイメージしてしまう症状ですが、やっぱりこれも心の防衛機能によるものだったのかな、などと想像してしまいます。
たとえば子どもの頃に、よく怒られたり怒鳴られたりすると、自分の心に壁を作って、つらさや悲しさや苦しさを軽減させようとすることがあるそうです。
これが大人になっても残っていて、あるシチュエーションやキーワードをきっかけにして、反射的に起こることもあるらしく、「私」が話していた老人にも、昔にそんなことがあったのかと思えば、理解できることのように思います。
ただ「私」はこれを南島人特有の性質のひとつとして捉えているふしがあるので、だからまったく理解できないと感じたのかもしれません。
とはいえ、マルクープ老人の雞についてはお礼だったのか、償いだったのか。粗悪品を高値で売りつけたり、物を盗んだりする奸悪さもあれば、善良な一面も垣間見せるなど、やっぱり「私」が理解できないと思う気持ちもわかります。
散々理解できるみたいなことを書いてきて、結局理解できないのが他人である、というのが今回のオチです。
読書感想まとめ
他人を理解できた気になっていても、結局は何も理解できていないのです。
狐人的読書メモ
最近の読書では人は結局自己本位に生きるしかないのかもしれないということをよく思う。他人を理解しようとしても結局理解できないのなら、自分勝手に生きてみて相手との傷つけない傷つけられない距離を計っていくしかないのであろう。それでいいのではなかろうか。
・『南島譚 -03 雞-/中島敦』の概要
1942年(昭和17年)11月『南島譚』にて初出。パラオ人特有の性質が理解できないというよりも、他人が理解できないという点において興味深い作品だった。
以上、『南島譚 -03 雞-/中島敦』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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