斗南先生/中島敦=斗南先生、最近見かけませんね。大人になる小説。

狐人的あいさつ

コンにちは。狐人コジン 七十四夏木ナナトシナツキです。

読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?

そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。

斗南先生-中島敦-イメージ

今回は『斗南となん先生/中島敦』です。

文字数23000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約65分。

三造青年は、斗南先生を少しも愛していない
と思っていたのだけれど……。

大人になる小説。

カミナリおやじや頑固爺、
斗南先生のような人は最近見られなくなりました。

近親憎悪と成長について。

未読の方はこの機会にぜひご一読ください。

狐人的あらすじ

斗南先生とは七十二歳で他界した三造の伯父、中島端のことである。北斗星よりも南に位置する斗南は天下を意味し、斗南先生とは伯父が「天下の狂人」であったことを示している。

三造は、この斗南先生の残した詩文集を、大学と高等学校の図書館へ納めに行くよう、家人から頼まれていた。しかしまったく無名の伯父の書物を、堂々と図書館へ持ち込むことに、三造は多分の恥ずかしさを覚えて躊躇していた。この心理には、自分の性格にも伯父に似ている部分のあることが、あるいは影響しているに違いない。

伯父は一言で言えば「偏屈な頑固爺」だった。非常な秀才であったが移り気のため、一生のうちに何のまとまった仕事も残せなかった。気に入らない者は寄せつけず、最期まで世と人を罵り続けていた。敬われても愛されることはなかった。焦燥と憤懣の中に、孤独な生涯を過ごした。

伯父が亡くなった年、三造は二十二歳の学生だった。思い出すのはその年の二月、こちらの都合もお構いなしで、大学の入試の只中ただなかにやってきては振り回されたこと。それからひと月ほど経って、体の具合がますますよくないとのことで、伯父のわがままを聞いて大阪の親戚の家まで付き添って行ったこと。結局二週間ほどして東京に帰ってきた伯父を見舞い、いよいよとなったときには息を引き取るのを見送ったこと。

三造はこの伯父をとくに好きだとは考えていなかった。どちらかといえば疎ましく思っていた。別れの挨拶に三人が呼ばれ、最後の一人である自分の手を伯父が握ったとき、それに感動させられたことさえ少々気恥ずかしく、またいまいましく感じた。それをごまかすように、伯父と自分の精神的類似について、その考察などを備忘録風に書き留めたりした。だから伯父が息を引き取って、涙がとまらなくなったとき、三造は驚き、腹立たしい思いがして、誰にも見られぬよう、六月のスイートピーが咲く庭に下りた。

結局三造は伯父の遺稿集を図書館に納めることにした。叔父に愛情を抱かなかった罪滅ぼしとか、すこしは功徳になるだろうとか、どうにかこうにか理由をつけたことを覚えている。

十年前の三造は、自分が伯父を少しも愛してはいないと、本気でそう考えていた。伯父の遺作を図書館に寄贈するのを躊躇していた葛藤が、いまはいかにも滑稽で恥ずかしいとしか思えない。大人になってから伯父の著書をひもといてみれば、未来を予言していたがごとく、その指摘のことごとくが正鵠射ていたことに驚かざるを得ない。

大東亜戦争がはじまり、海戦が激化する中で、三造のまず思ったのもこの伯父のことであった。伯父はこれを予見するような漢詩を残していた。そして伯父の遺骨は遺言通り海にまかれた。ひょっとして伯父は、詩にいうようにシャチになって、敵の軍艦に睨みを利かせているかもしれない。

狐人的読書感想

斗南先生-中島敦-狐人的読書感想-イメージ

昭和の時代には斗南先生を思わせるような、「カミナリおやじ」や「頑固爺」と呼ばれる人たちがいて、こうした人たちがその地域の子供たちの躾とか道徳教育とかの一部を担っていたという側面があったようなのですが、現代ではあまり見かけないように思います。

「流行らない」と言ってしまえばそれまでのことなのかもしれませんが、公共の場所できちんと注意できる人というのはすごいなあ、と思う一方で、それに嫌な顔をしたり無視して立ち去ってしまう人の気持ちもなんだかわかるような気がします。

最近は、モンスターペアレントと善意の第三者との壮絶な争い、みたいなものがテレビなどで報じられるのを見る機会もあって、その意味でも余計なトラブルは敬遠したく思ってしまいます(とくに中国の電車内トラブルはすさまじいです)。

人の意見はすなおにちゃんと聞きたいなあ、とは心がけているのですが、いざ知らない人に注意されたりすると、なんか怖いというか、関わり合いになってはいけないような気がするようにも思えるんですよねえ……。

そうなれば注意する人も注意される人もそれを眺める周りの人もいい気分はしないわけで、そんな現代の空気が人間関係を希薄化させている一要因のようにも考えるのですが、どうでしょうね?

人に注意するのは僕にはなかなか難しく感じますが、人から注意されればすなおに聞き入れるようにしたいと思いました(常に謙虚であることの難しさを思いました)。

そんなわけで、「偏屈な頑固爺」であるところの斗南先生が、誰にも愛されず孤独のうちに生涯を閉じた、というのは現代人だからこそ、より共感できるところではないでしょうか?

斗南先生(中島端)のモデルは、中島敦さんの実際の伯父である中島端蔵さんとのことなのですが、「この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空のものであり、実在のものとは関係ありません」というように、実在の人物がそのまま小説に描かれることは少ないように思いますが、中島敦さんの伯父さんは作中の斗南先生みたいな人だったのかなあ、というところはちょっと興味を覚えました(調べてみましたがはっきりとはわかりませんでした)。

同じく著者自身がモデルになっていると思われる三造が、この伯父に抱く感情も興味深かったです。

三造が斗南先生に抱いた感情は、「近親憎悪」と呼べるものではないかと、まず僕は考えたのですが、しかし一概にそればかりでもないような気がしました。

というのは、三造は多くの親戚に自分の気質が伯父に似ていることを指摘されて、それで自分自身と伯父の似通った性質を憎んでいる節がある、というところにひっかかりを覚えたからなのですが。

たとえば、母親が父親の嫌なところを挙げ連ねて、子供に「あなたはお父さんそっくりね」と言っていれば、子供はそれで父親に「近親憎悪」の感情を抱くことになるような気がします。

そうなると、それは純粋に父親の性質を憎んでいるわけではなくて、母親に言われたから父親の性質を憎むようになったのだから、真の意味で近親憎悪しているわけではないのかなあ、というふうにふと思ったのですが(てかこの思い、うまく伝わっている自信がありませんが)、どうでしょうね?

とはいえ、自分の嫌なところというのはけっこう見えやすいような気がして、誰かを嫌っている理由を考えたとき、それが近親憎悪だった、というのはよくある感情だという感じがします。

あるいは逆のこともいえるのでしょうか? 自分の嫌なところというのは意外と見えにくく、嫌いな人のどこが嫌いかを考えたとき、それは自分と同じ性質のものだったと気がつく、みたいな。

「人こそ人の鏡」という言葉を彷彿とさせられた部分でした。

三造は大人になってみて、あれほど嫌っていたはずの伯父を、じつはそれほどまでに嫌っていたわけではなかったことを知るわけですが、このあたりは「青少年期の自意識」を思わされました。

なんとなく恥ずかしいとか、なんとなくそれはプライドが許さないだとか、それは若いうちのことだけであって、大人になればだんだんとなくなっていくものなのでしょうか?

いまだ僕にはわからないところではありますが(それは恥ずべきことなのかもしれませんが)、そういわれてみればそんなような気もしてきます。

近親憎悪の感情からか、あれほど嫌いだった人がじつはそれほど憎んでいたわけではなかったのだと気がつくことは、たしかに思春期を脱するのにも似た、大人になる証なのかもしれませんね。

そうなってみてはじめて、その人のすごいところが見えてくるという、なんというか、人としての当たり前の成長が描かれている小説のように感じたのですが、ひょっとするとこれは、ちょっと浅い読書感想になってしまっているでしょうか。

『斗南先生』をすでに読まれている方、あるいはこれから読んでみようと思い読んでくれた方々と、ぜひ意見を交わしてみたいところです。

読書感想まとめ

斗南先生-中島敦-読書感想まとめ-イメージ

斗南先生を通じて大人になることが描かれている小説。

狐人的読書メモ

中島敦の小説は心に残るような文章が多い。『自分で一人前の生活もできないのに、いたずらに人を罵るなぞは、あまり感心できない』。『災難はいつ降ってくるか分らず、人は常にそれに対して、何時いつ遭遇しても動ぜぬだけの心構えを養って置くことが必要である』。「バルザックの『従兄ポンス』」(チェックしたい)。『伯父は、どんな大旅行をする時でも、時計など持ったことがないのである』。『この世界で冗談にいったことも別の世界では決して冗談ではなくなるのだ』(『ペルソナ』を彷彿とさせる)。『(そのくせ、彼はふだん決して他の世界の存在など信じてはいないのだが)すると、伯父の詩の蛇身という言葉が、蛇身という文字がそのまま生きてきて、グニャグニャと身をくねらせて車室の空気の中をいまわっているような気持さえしてくるのであった』(中島敦作品の特徴のひとつ「ゲシュタルト崩壊」)。『若い頃の或る時期には、全く後から考えると汗顔のほかは無い・未熟な精神的擬態を採ることがあるものだ。この場合も明らかにその一つだった』。

・『斗南先生/中島敦』の概要

1942年(昭和17年)7月15日『光と風と夢』(筑摩書房)収録が初出。脱稿の日時については「昭和八年九月十六日夜十二時半」と、原稿の欄外に記されている。それにより初期の作品であることがわかる。ただし終盤部分は加筆されたものである。

以上、『斗南先生/中島敦』の狐人的な読書メモと感想でした。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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