狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『秋の暈/織田作之助』です。
文字数1600字ほどの随筆。
狐人的読書時間は約7分。
愁いをおびた秋をリリカルに綴った織田作之助の随筆。
あなたの一番好きな季節は?
季節の移り変わりを感じるのはどんなとき?
秋の下に心と書いて愁、意外に怖い漢字の由来あります。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
(短いのでぜひ全文をどうぞ)
『秋の暈/織田作之助』
秋という字の下に心をつけて、愁と読ませるのは、誰がそうしたのか、いみじくも考えたと思う。まことにもの想う人は、季節の移りかわりを敏感に感ずるなかにも、わけていわゆる秋のけはいの立ちそめるのを、ひと一倍しみじみと感ずることであろう。私もまた秋のけはいをひとより早く感ずる方である。といって、もの想う故にではない。じつは毎夜徹夜しているからである。
私の徹夜癖は十九歳にはじまり、その後十年間この癖がなおらず、ことに近年は仕事に追われる時など、殆んど一日も欠さず徹夜することがしばしばである。それ故、およそ一年中の夜明けという夜明けを知っていると言ってもよいくらいだが、夜明けの美しいのはやはり秋、ことに夏から秋へ移ろうとする頃の夜明けであろう。
五尺八寸、十三貫、すなわち痩せているせいで暑さに強い私は、裸で夜をすごすということは余りなく、どんなに暑くてもきちんと浴衣をきて、机の前に坐っているのだが、八月にはいって間もなくの夜明けには、もう浴衣では肌寒い。ひとびとが宵の寝苦しい暑さをそのまま、夢に結んでいるときに、私はひんやりした風を肌に感じている。風鈴の音もにわかに清い。蝉の声もいつかきこえず、部屋のなかに迷い込んで来た虫を、夏の虫かと思って、団扇ではたくと、ちりちりとあわれな鳴声のまま、息絶える。鈴虫らしい。八月八日、立秋と、暦を見るまでもなく、ああ、もう秋だな、と私は感ずるのである。ひと一倍早く……。
四、五年前まえの八月のはじめ、信濃追分へ行ったことがあった。
追分は軽井沢、沓掛とともに浅間根腰の三宿といわれ、いまは焼けてしまったが、ここの油屋は昔の宿場の本陣そのままの姿を残し、堀辰雄氏、室生犀星氏、佐藤春夫氏その他多くの作家が好んでこの油屋へ泊りに来て、ことに堀辰雄氏などは一年中の大半をここの大名部屋か小姓の部屋かですごしていたくらい、伊豆湯ヶ島の湯本館と同様、作家たちに好かれた旅館であった。
十時何分かの夜行で上野を発った。高崎あたりで眠りだしたが、急にぞっとする涼気に、眼をさました。碓氷峠にさしかかっている。白樺の林が月明かりに見えた。すすきの穂が車窓にすれすれに、そしてわれもこうの花も咲いていた。青味がちな月明りはまるで夜明けかと思うくらいであった。しかし、まだ夜が明けていなかった。
やがて軽井沢につき、沓掛をすぎ、そして追分についた。
薄暗い駅に降り立つと、駅員が、
「信濃追分! 信濃追分!」
振り動かすカンテラの火の尾をひくような、間のびした声で、駅の名を称んでいた。乗って来た汽車をやり過して、線路をこえると、追分宿への一本道が通じていた。浅間山が不気味な黒さで横たわり、その形がみるみるはっきりと泛びあがって来る。間もなく夜が明ける。
人影もないその淋しい一本道をすこし行くと、すぐ森の中だった。前方の白樺の木に裸電球がかかっている。にぶいその灯のまわりに、秋の夜明けの寂けさが、暈のように集っていた。しみじみと遠いながめだった。夜露にぬれた道ばたには、高原の秋の花が可憐な色に咲いていた。私はしみじみと秋を感じた。暦ではまだ夏だったが……。
かつて、極めて孤独な時期が私にもあった。ある夜、暗い道を自分の淋しい下駄の音をききながら、歩いていると、いきなり暗がりに木犀の匂いが閃いた。私はなんということもなしに胸を温めた。雨あがりの道だった。
二、三日してアパートの部屋に、金木犀の一枝を生けて置いた。その匂いが私の孤独をなぐさめた。私は匂いの逃げるのを恐れて、カーテンを閉めた。しかし、その隙間から、肌寒い風が忍び込んで来た。そして私のさびしい心の中をしずかに吹き渡った。それが私を悲しませた。
一週間すると、金木犀の匂いが消えた。黄色い花びらが床の間にぽつりぽつりと落ちた。私はショパンの「雨だれ」などを聴くのだった。そして煙草を吸うと、冷え冷えとした空気が煙といっしょに、口のなかにはいって行った。それがなぜともなしに物悲しかった。
狐人的読書感想
タイトルにもあるように、「秋」というものについて叙情的に書かれた織田作之助さんの随筆です。
「叙情的」という言葉は「感情を述べ表すこと」をいいます。
なのでまあ、随筆といえばそのほとんどが感情を述べているわけで、すべて叙情的なものであるといえるかもしれませんが。
ちなみに「叙情的」は、英語でいうと「リリカル(lyrical)」となります。
「リリカルな作品」と言い換えてみると、なんかアニメ作品の評のように聞こえてしまうのは僕だけ?
そんなわけで(?)『秋の暈』は織田作之助さんのリリカルな随筆です(笑)
簡単にまとめると「秋は寂しい季節である」ということが書かれています。
織田作之助さんでなくとも、やはり「秋は寂しい季節」というのが一般的なイメージでしょうか?
夏が開放的で楽しげなイメージがあるだけに、その終わりを告げる秋の訪れということが、秋の寂しげな雰囲気をより際立たせていますよね。
とはいえ僕などは、秋がやってくると、ようやく夏の暑さから解放された、という感じがして、どこかほっとしてしまうのですが。
「読書の秋」、「食欲の秋」ともいいますし、秋が過ごしやすい季節であることはたしかで、ちょっと気になって見てみたのですが、ネット上の「どの季節が一番好き?」といったランキングでは、「秋」と「春」が1位2位争いをしていて、「過ごしやすい」というのはひとつ季節に対する印象についての、重要な判断基準というように思いました。
織田作之助さんは作中の冒頭で、「秋」という字の下に「心」をつけて、「愁」と読ませるのは秀逸だと述べていますが、たしかに誰が考えたのかなあ、と思ってしまうほどに、漢字というものは「名が体を表している」なあ、と僕にも感じられます(漢字だけに感じられます)。
考古学的に、最古の漢字は甲骨文字というものだそうで、これは「山」や「川」のように、ものの姿かたちをそのまま写し取ったいわゆる象形文字と呼ばれるものですが、たとえば「女」が「子」をあやす様子から「好」という漢字が生まれたように、いくつかの漢字を組み合わせて新たな意味を持つ漢字もありますよね。
「秋」に「心」とつけて「愁」と読ませるのは、詩的な風情さえ感じてしまいますが、たしかに誰が考えついたのかなあ、と、いわれてみれば疑問に思えてきて、そういった漢字というのはもっとたくさんあるような気がしてきます。
そんなわけで調べてみると、やはり肯かされるものや感心させられるものも多いのですが、意外というか怖いというか、とにかく意外な漢字もけっこうあって、これがなかなかおもしろいです。
以下にいくつか綴っておきます。
両腕を切り落とされてしまった子供の姿を表す「了」。手枷を象った漢字で、絶命だけは免れることができたということで「幸」。神の言葉を聞くために髪を振り乱して狂うように踊る巫女の姿を示す「若」。草原に打ち捨てられた人々の髪の毛がゆれる様子を描く「荒」。目を刃物でくり抜いて見えなくした男の奴隷「童」。首を持って進む「道」。腹から飛び出した腸「七」。
――などなど(ほかにも怖おもしろい由来の漢字はたくさんあるみたいです)。
それから、筆者が「秋の気配をひとより早く感じるのは毎夜徹夜をしているからだ」といっている点は少し興味を覚えました。
季節の変わり目を感じる瞬間というのは、たしかにひとそれぞれにあるのかなあ、という気がします。
僕の場合はなんだろうなあ、と考えてみたのですが、最近暑くなったなあとか、寒くなったなあとか、気温の移り変わりのほかにはぱっと思いつけませんでした。
『夜明けの美しいのはやはり秋』などと僕も言ってみたいように思いましたが、なかなかそんなふうに感じたことはないような気がしてしまいます。
みなさんはこのあたりどうでしょう?
虫の声、温泉旅行、秋の暈がかかった夜の灯に、金木犀の香り……、こういったもので、秋を感じてみるのも、風情があっていいものですよね。
読書感想まとめ
「秋」は「愁」の季節。
狐人的読書メモ
――という読書感想にもならない読書感想をいよいよ夏が始まるこの時期に書いたという今回のオチ。……そういえば、金木犀は『東京グール』のカネキくんの「金木(犀)」。花言葉は、謙虚、気高き人、それから初恋、変わらぬ魅力、思い出の輝き、真実の愛、……最後のひとつは陶酔ッ!
・『秋の暈/織田作之助』の概要
初出不明。『日本の銘随筆19 秋』(作品社、1984年―昭和59年―)に収録。愁いをおびた織田作之助のリリカルな随筆。
以上、『秋の暈/織田作之助』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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