狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『狼疾記/中島敦』です。
文字数25000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約83分。
運命や存在の不確かさ。
それは自意識過剰な青年の不安である。
哲学好き、あるいは自意識過剰なひとには文句なくおすすめ。
哲学、将来への不安、宇宙に抱く漠然とした不安、
むっつりスケベ。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
三造は、南洋群島に暮らす原住民を写した映画を見て思った。自分も彼ら未開人の一人として生まれてくることはできなかっただろうか。知識や知恵といったものが、三造に考え続けることをやめさせてくれない。「運命や存在の不確かさ」というものが、常に三造を不安にさせた。
映画館を出てレストランに入った三造は、食事をしている男を見た。男の首のつけねに大きなこぶがあった。そのこぶが、三造にギリシャ悲劇の意地の悪い神々のことや、ローマ皇帝ヴィテリウスの「ずっと食を楽しむために、食べては嘔吐してまた食べた」という逸話を連想させた。
アパートへの帰り道、三造は小学生の頃のことを思い出していた。担任の教師の話を聞いた三造は、将来地球が寒冷化して、人類が絶滅するのはまだ我慢できると思ったが、太陽までもが消えてしまい、真っ暗な空間を黒く冷たい星々が巡っている様子を考えるのは堪らなかった。だが父や親戚たちはそれを聞いて笑っていた。五千年、一万年後のことを気にしてどうなる。三造はどうして彼らが笑っていられるのか、疑問に思った。
多くのひとは最初からそんなこと気にしないか、あるいは成長とともに卒業するのだろう。しかし三造の場合は、幼い頃に抱いた不安が、大人になったいまでも彼を捕らえて放さないのだ。哲学者たちの言葉の中に答を見出そうとした時期もあったが、結局のところ答は自分で見つけるしかないのだろう。
アパートの部屋に帰ってきた三造は、ベッドの上に仰向けになった。疲れるはずもないのに疲れを感じた。ただ街をぶらぶらしただけの意義のない一日だった。明日は金曜、女学校の博物学の講師の仕事がある。週二日の出勤で、あまり熱心に教えているわけでもない。そのうちに、女学生の性質についての定理とその系を集めた幾何学書など作ろうかと考えていた。
学校を卒業して二年目に父が亡くなり、その資産を相続した三造は二つの生き方を考えた。一つは実業家とか政治家とかになることで、自身の性質からしてそれは難しくなかったがやめた。仕事で生活を犠牲にする生き方に意義を感じられなかったからだ。おそらく病弱な体質もこの選択にかかわっていただろう。三造は、高等遊民的な気ままな、いまの暮らしを選んだ。
博物標本室でカフカの『巣穴』を読んでいた三造を、事務のM氏が訪ねてきた。M氏は奇怪な容貌をしていて、愚鈍で、突然若い女性の手を握る癖があり、いろいろと自慢したがるところがあったので周囲から疎ましがられていた。だからだろうか、話を聞いてくれる三造のところをよく訪ねてきた。
この日も『日本名婦伝』という自筆の本を見せに来たのだが、それは明らかに一種の詐欺出版の代物だった。その流れで三造とM氏は飲みに行くことになった。酔ったM氏は「人生はらせん階段のようなもので、一つ上の景色と一つ下の景色とでは、上のほうが遠くまで見えるので、僅かな違いがあるのだが、上のひとは下のひとも自分と同じ眺望を見ていると思い、下のひとは上のひとの眺望を知るよしもない」というような話をした。三造は、M氏は自分が上のほうにいると考えて、我々を嘲弄しているに違いないと考える。このことは、人間と犬や猫などの関係にもいえることなのかもしれない。人間は人間の智慧が最高のものだと自惚れているのではなかろうか……。
――ふん、三十にもならないおまえが、悟りでも開いたつもりなのか? 世俗を超越した孤高の、精神的享受生活の、などと自惚ぼれているんだったら、とんだお笑い草だ。おまえには行動力がないだけだ。人間は、時間、空間、数――そういった観念でしか何事も考えられないようにできている。だから神や超自然といった非存在を論理的には証明できない。キザな、悟ったような、生意気な態度はよせよ。女好きなくせに女に興味のないふりはやめろ。堂々とやれ。すなおに生きろ。悲しければ泣き、くやしければ地団太を踏み、笑いたければ大口を開けて笑え。世間を気にしないふりをしているおまえが一番おまえを気にしているじゃないか。誰もおまえのことなんか見ていない。まったくどしがたい馬鹿野郎、大根役者だよ、お前という男は……。
……気がつくと、三造は、どこかの店のショーウィンドウに額をつけて眠っていたらしい。窓際を離れた三造は、しばらくM氏のこともさきほどの自己苛責のことも忘れて、人通りのない街を浮かれ歩いた。
狐人的読書感想
……ま、まとまらなーい。簡単にいってしまうと「思考派の青年が哲学するお話」でいいような気がします。
(このあたり、『わが西遊記』の悟浄に通じるところがかなりあります。『狼疾記』は中島敦さんの自伝的な小説ともいわれているので、三造と同様やはり悟浄も著者自身の分身的なキャラとして捉えることができるのではないでしょうか。僕はこのキャラがけっこう好きなのですが、みなさんはいかがでしょう?)
平易な文章なので読みやすいですが、非常に観念的な内容になっているので小難しく感じました。
とはいえ、ところどころ思わされるところが多く、ゆえにあれもこれもと書きたくなってしまい、ご覧のとおり(ご覧になる気になれないかもですが)あらすじがまとまらないことになってしまったのですが(言い訳ですが)、哲学好きには間違いなくおすすめできる小説となっております。
(そういえば、先日の『第9回AKB48選抜総選挙』で、結婚宣言をして世間を大いに賑わせた―まだ賑わってる?―須藤凜々花さんの将来の夢は「哲学者」らしい、というニュースが印象に残っていますが、というまったく関係ないお話)
多くの哲学的なことが書かれているので、読んでみれば誰でもどこかしら自分の感性に響く部分が、好きなところが見つかる作品ではないでしょうか。
そんなわけで、僕の好きなところについてもいくつか書き残しておこうと思います。
冒頭、南洋諸島の原住民の映画を見て、なぜ自分も原住民に生まれなかったのか、といった疑問を三造は抱くわけなのですが、このあたりはちょっとだけわかるような気もするし、またわからないような気もしました。
三造の場合、知識がなければ、自身を不安に陥らせるような、余計なことを考えなくてもすむのに……、というのがその理由でしたが、これは僕の場合、将来への不安みたいなものに通じるのかなあ、という感じがします。
いま置かれている状況が生きにくいと感じるし、だから将来もどうなるかわからないし、いっそのことはじめからやることが決まっている場所や時代に生まれていれば、こんなことで悩まなくてもすんだのになあ、みたいな。
ないものねだりというか隣の芝生は青く見えるというか。だけどこちらが羨むあちらにはあちらの不安や苦しみがあるでしょうし、そうなればあちらがこちらを羨む状況だってあるでしょう。
結局は与えられたもので、よそを羨まない生き方をしなければならない、というだけの話なんだよなあ、とは思うのですが、それがなかなか難しいんですよねえ……。
三造の不安の元凶たる考えというのは、「運命や存在の不確かさ」というもので、これは他作にも見られるテーマですね。
三造は、小学生の頃に担任の先生から聞いた地球寒冷化の話から、太陽の消えた真っ暗な宇宙に想いを馳せて不安になっていましたが、きれいな星空を見ていて何か漠然とした不安にとらわれてしまう、というようなことはわかるような気がしました。
とはいえ、その不安を大人になってまでも持ち続けて、考え続けているというのは、やはり一般的なことではないように思います。
三造が考察するとおり、こういったいわゆる「答のない問題」みたいなことには、ひとは成長過程のどこかにおいて、どうにかこうにか折り合いをつけてしまうものではないでしょうか。
それは必要性の薄いこととして考えないようにするか、自分なりの答を見つけることなのでしょうが、考えないようにするほうが多数派かなあ、という気がします。
病弱で先が長くないかもしれないという予感と、自由な時間が多い立場であることが、余計なことを考えてしまう要因だというふうに三造は自己分析をしていますが、たしかに病気のひとの感性というのは敏感で鋭いものだと感じます(梶井基次郎さんなどの作品を読んで感じます)。
M氏のらせん階段の話とそれから感じる三造の思いも興味深かったですね。どうしてもひとは、他者の自分よりも劣っている部分を探してしまい、そこに優越感を得ようとしがちなように思い、このことは僕も自戒として常に意識しておきたいと願っていることなのですが、なかなか思うようにいかない部分です(豆知識とか雑学をすぐにひけらかしてしまいたくなる奴)。
さらに、これはたしかに人間と他の生物の関係にもいえることで、このことはほとんど意識したことがなかったので、強い感銘を受けました。
ペットや家畜に対してはとくに、人間は自分の優位性を信じて疑いもしないわけですが、全体的に俯瞰して見てみれば、犬や猫、牛や豚などは人間のペットや家畜となることで繫栄しているわけで、だけどその在り方は上位者の人間としてはときにあわれと感じることもあり、しかし三造のいうように、真に動物たちの思考を理解できるとしたら、案外彼らのほうが人間をあわれんでいたりするのかもしれないなあ、とか漠然とイメージできました。
ただし、これらも全部人間視点の勝手な空想といえるわけなのですが……、考えさせられるところでした。
「心優しき軽蔑」を感じることに興味を持っているとか、三造の女学校の生徒たちに対する思い(女性に対する思い)もちょっと屈折したところが見られますね。
「女学生の性質についてシニックな定理とその系とを集めた幾何学書を作ろうか」と考えているというところはちょっとウケましたが。
(例えば、定理十八。女学生は公平を最も忌み嫌うものなり。証明。彼女らは常に己おのれに有利なる不公平のみを愛すればなり。の如き。)
年下だから、女性だから、といって見下しているふうにも捉えられますが、過剰に意識しているようにも思えますよね。
この作品で一番読むべきは、三造がラストで「自己苛責」といっている「第五章」にあたるところです。
おおまかにいってしまえば「考えても仕方のないことは考えるな、動け!」ということになるかと思います。
うじうじ考えてても何も解決しない、行動しろ、というのは現代人でも共感するひとの多い人間真理のひとつではないでしょうか?
さらに付け足すならば、むっつりじゃないすなおなスケベになれ、みたいなことが書かれていて(狐人的解釈)、それを自分で(あるいはもうひとりの自分が)いっているところがおもしろく、また共感できるように感じました(おいおい)。
読書感想まとめ
哲学好き、あるいは自意識過剰と感じているひとにはぜひ読んでみてほしい小説です。ちょっとひとを選ぶかもしれませんが、それ以外の方にもぜひに。
狐人的読書メモ
「我々は知らない、知ることはないだろう」(イグノラムス・イグノラビムス)
・『狼疾記/中島敦』の概要
1942年(昭和17年)11月『南島譚』(今日の問題社)にて初出。中島敦の多くの小説に通底する作品。タイトルは序文にある「養其一指、而失其肩背、而不知也、則為狼疾人也(一指に気をとられて肩や背まで失うことに気がつかぬ、それを狼疾の人と云う)」という孟子の言葉に由来している。『かめれおん日記』とともに『過去帳』分類される作品である。
以上、『狼疾記/中島敦』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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