大導寺信輔の半生/芥川龍之介=大導寺信輔に共感してしまう僕って……。

狐人的あいさつ

コンにちは。狐人コジン 七十四夏木ナナトシナツキです。

読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?

そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。

大導寺信輔の半生-芥川龍之介-イメージ

今回は『大導寺信輔の半生/芥川龍之介』です。

文字数14000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約50分。

大導寺信輔は頭がよくてプライドが高く
コンプレックスのかたまりで
教師を小バカにして友達がいないぼっちで
いけすかないやつですが、
そんな彼に共感してしまう僕はひょっとして……。

未読の方はこの機会にぜひご一読ください。

狐人的あらすじ

1 本所ほんじょ

都会のきれいな街並みは彼を圧迫し、田舎の自然は少しも彼の興味を引かなかった。大導寺信輔は自分の生まれた本所の町を愛した。そこは美しさとは無縁の町だった。しかし花をつけた屋根や水たまりに映る春の雲は、彼にいじらしい美しさを示した。それはあるいは憐みだったのかもしれない。が、ともかく彼は生まれた町を愛していた。

2 牛乳

信輔は母の体が弱かったために、母の乳を吸ったことがなかった。だから牛乳を飲んで育った。この運命を彼は憎んだ。母の乳を知らぬことは彼の劣等感となった。体の弱さをこの運命のせいだとは思われたくなくて、さまざまな遊び、友だちの挑戦にはいつでも応じた。しかし、ローマの建国者ロームルスもまた狼の乳を与えられたことを知って、彼の劣等感も次第に消えていった。以来、彼は牛に対してある種の親近感を覚えるようになる。

3 貧困

信輔の家は貧しかった。だが下流階級の貧困ではない。貧しいのに体裁をつくろわなければならない、中流階級の貧困だった。彼はこの貧困を憎悪した。そして何かと理由をつけては小遣いを巻き上げようとする自身の嘘も、体裁をつくろおうとする両親の嘘と同様に彼には不快なものだった。彼は貧困を脱したいまでも、やはり貧困を憎んでいる。

4 学校

信輔が思い出す学校の記憶はイヤなものばかりだ。彼は学校の勉強というものに、真の意義を見出せずにいた。しかし将来貧困から脱するためには学校に行かなければならなかった。信輔は教師を憎んだ。教育上の責任、ことに生徒を処罰する権利は彼らを暴君にした。信輔は教師に反発した。だから試験は高得点にもかかわらず、素行点がいつも全体の評価を下げていた。学校で彼はいつも孤独だった。

5 本

信輔は本が好きだった。その情熱は、小学時代に読んだ『水滸伝』からはじまった。『カラマーゾフの兄弟』、『ハムレット』、『ドン・ジュアン』、『ファウスト』などいろいろな本を読んだ。が、貧しかった信輔は自由に本を買うことができなかった。図書館や貸本屋が彼を救った。信輔は本を買うためには節約したり家庭教師のバイトをしたりした。ある古本屋で、かつて自分の売った『ツァラトゥストラはこう語った』を見つけて買い戻したことが、彼の印象に強く残っている。

6 友だち

信輔には友だちがいなかった。自分に見合った才能を持っていようがいなかろうが、信輔にとって他人は路傍の人だった。彼は人にやさしさなどの情感を求めなかった。ただ頭のよさを求めた。が、頭脳には愛と同時に憎悪をも感じる。そして中流上層階級以上の青年にも他人らしい憎悪を感じた。いずれにせよ彼に友だちをつくることはできなかった。

――この小説はここまでで絶筆となる。

狐人的読書感想

大導寺信輔の半生-芥川龍之介-狐人的読書感想-イメージ

『大導寺信輔の半生(副題:或精神的風景画)』は、芥川龍之介さんの半自伝的な小説なのだそうですが、狐人的には全章でことごとく共感できる部分があって、とても考えさせられる小説でした。

主人公の大導寺信輔は、一言で言うなら「インテリのいけすかないやつ」といった感じになってしまうのですが、その彼にいちいち共感してしまう僕はひょっとして――とか思ってしまうと、とても考えものだと言い換えることもできそうです(汗)

……と、とりあえず、1章から順番に綴っていきたいと思います。

1章の本所は、江戸時代から住宅地として発展してきた土地らしく、小奇麗な商店の並ぶ下町や日本橋や山の手なんかよりも信輔はとても綺麗とはいえない本所のほうをこそ愛しているのだといいます。このあたりはどんどん西洋文化を取り入れて、近代化していく日本の姿を批判的に捉えているのかなあ、という気がしました。

また、水田の多い田舎の自然と、屋根に咲く花といったいじらしい自然とを対比して後者のほうが美しいといっているところもあります。雄大な自然よりも人工の文明に息づいている自然を愛した、といった部分は前述と矛盾するように思い、ちょっとわかりづらいところでした。

やはり大自然には、人間には計り知れないところがあって、そこに不安を感じるみたいな気分は理解できますし(星空を見上げてふと思う漠然とした不安みたいな)、都会の街並みにひっそりとある自然にほっとするというのも頷けるところです。近代化を悲観的に捉えながらも、その流れを止めることはできず、では自然との調和を尊重すべき、といったことなのでしょうか? 自信はないのですが。あるいは単純に生まれた土地は特別であるということがいいたいだけなのかもしれません。

2章の牛乳では、母の乳を与えてもらえず、牛乳で育ったために抱くことになった劣等感というものが描かれています。自分が与えられなかったものを与えられて育ったほかの子供たちを羨望せんぼうした、というところは僕にもよくわかるように思いました。

「よそはよそ、うちはうち」とか言われてしまえばそれまでで、何も言い返せなくなってしまいませんか? 親だって決していじわるで子供が欲しがっているものを与えないわけではないでしょう。できることなら何だって与えてやりたいけれど、家庭の経済状況や教育方針などでそれができない場合は往々にしてあり、信輔のお母さんも子供にお乳をあげられないことをきっとつらく思っていたのではないかなあ、と想像しました。

とはいえ、みんなが持っているものを持っていない信輔の劣等感やほかの子供たちに対して抱く羨望の気持ちはとてもよく理解できます。とくに子供時代は自分のことばかりしか考えられなくて、親の心情をおもんぱかることは相当にむずかしく、やはり成長してわかっていくしかないことなのかなと思いました。

ただ、ローマの建国者ロームルスもまた狼の乳を与えられたことを知って、信輔の劣等感も消えていった、というところには劣等感、コンプレックスを克服するためのひとつの教えが含まれているように感じました。

たしか『鼻』でも、禅智内供ぜんちないぐが自分と同じような鼻を持つ過去の偉人を探し出して、そこに慰めを得ようとしていたことを記憶していますが、コンプレックスと向き合うこと、親の気持ちを考えることのむずかしさを思わされた章でした。

3章の貧困についてもとてもよくわかるところでした。総括すると「物質的な貧しさは心の貧しさに直結している」ということなのですが、信輔は中流階級であるがために外面をとりつくろわなければならない両親を憎悪し、嘘をついて両親の歓心を買ってまで小遣いを巻き上げようとする自分自身を憎悪し、自分たちがそうしなければならない根源たる貧困というものを心底憎悪しています。

自分がたくさん持っていなくてもひとに与えられる、自分がつらくてもひとにやさしくできる、そんな理想的な人間になりたいとは願っていても、なかなかそんな理想的な人間にはなれません。

読書していてどうすれば理想的な人間になれるのかを考えることは多いのですが、その答えはいつも出せずじまいです。

あるいは理想的な人間が本当の人間といえるのだろうか、といった疑問を持つこともあります。自分のことよりも他人のことを優先できる、他人のために自分の命さえ犠牲にできるような在り方が、はたして人間として正しい在り方なのか、というところにまで考えが及ぶこともあります。これもなかなかにむずかしい問題のように感じています。

4章の学校は多くのひとが共感できるところです。ことに現在進行形で学生の方には深く頷けるひともたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

はたして尊敬できる先生というひとに、出会ったことのあるひとがどのくらいいるのでしょうね?

教師というのもやはりひとつの職業であって、長く続けているとルーチンワークになってしまうものだと思います。教え子のことをまったく考えない先生というのはいないだろうとは思いますが、習慣としてたんたんと教育という仕事をこなす教師像が、とくに教育事情に厳しい昨今では当たり前だという気がするのです。深入りし過ぎて失敗して、もしも教師を辞めなければならなくなってしまったら、先生だって生活があるわけで、とても困ってしまいますものね。

生徒の心情としては頼れる先生、助けてくれる先生をどうしても求めてしまいがちですが、その辺の事情も汲んで先生と接していかなければならないのかなあ、と思いました。熱血教師は昔のマンガやドラマの中だけに存在する、遠いものになりつつあるような気がしています。

ただ言わんとしていることは理解できるのですが、信輔の態度もよくないよなあ、ということも感じました。頭のいい生徒にはありがちなことなのかもしれませんが、教師をバカにするような態度はいただけませんよね。

最近は塾などでずいぶん先のことまで勉強していて、学校の授業をなめているように見受けられる子供たちも増えているという話を聞きます。

たしかに理不尽なことをされたり言われたりすることも学校では多いように思いますが、ただ反発するだけでは教師も人間、やはりいい気持ちはしないでしょうね。

これは教える側だけでなく、教わる側にも相応の態度が求められるのだという、人間の心得ておくべき大切な基本姿勢なのではないでしょうか? 教育のみならず、あらゆる場面において通用することです。他人は自分を映す鏡であり、自分は他人を映す鏡である、ということがいえるように思いました。

5章の本は、僕も本を読み、こうした読書感想を書いている以上共感すること大な部分でした。とくに小学時代に『水滸伝』を読んで本にはまったというところは、僕も北方謙三さんの『水滸伝』が好きなので、思わず信輔と『水滸伝』について語り合いたい衝動に駆られました。とはいえ、信輔の性格を思えば楽しい会話にはならないかもしれませんが……。

本があらゆる知識を与えてくれて、見識を広めてくれるというところにはまったく賛成でしたが、ただし信輔はいささか本に傾倒し過ぎているきらいがあるように感じました。これは僕自身にもいえることなのかもしれません。

『書を捨てよ、町へ出よう』という言葉をついつい思い浮かべてしまいました(自戒的な意味を込めて)。

6章の友だちでは信輔に友だちのいないことが、信輔がぼっちであることが描かれているのですが、頭がよくてプライドが高くてひとを小バカにしているような信輔は、たしかにいけすかないやつなのですが、それをちょっと寂しくも思いました。

スクールカーストなどを思わされるところですが、やはり人間、どうしても自分と他人との優劣をはかってしまうものです。似た者同士、レベルの近いもの同士が友だちなのであって、それ以外の友だちというのは存在しないような気がしてしまいます。

信輔ではありませんが、僕は自分自身のそうした意識を憎悪しているのですが、どうしても趣味があったり、自分のユーモアを解してくれたりする友だちとばかり親しくなりたいと考えてしまうところがあるように思うのです。

もちろんそれが一概に悪いことだとはいえないわけですが、誰も見下さずに誰とでもなかよくできる自分でありたいと願うのですが、こういうことを願う時点でそれは達成できないことのようにも思われて――やはり思考は堂々巡りとなってしまいます。

ともあれ頭脳ばかりを重視する信輔の考え方は、僕自身と照らし合わせてみても少し寂しいもののように感じました。信輔は友だちにやさしさを求めていませんでしたが、僕は友だちにやさしさを求めていきたいし、また僕も友だちがやさしさを求めてくれる人間になりたいと思いました。

最後に、この小説には付記があって、もう三、四倍は続けるつもりであったことが書かれているのですが、僕は6章までを読んでぜひ続きが読みたいと思ったので、絶筆となってしまったことを残念に思います(最近はこれを思うことが本当に多いです、中島敦さんの『わが西遊記』、太宰治さんの『グッド・バイ』)。

読書感想まとめ

なんだかすごく共感してしまった小説です。これにすごく共感してしまうというのはひょっとして……(いわずもがな)

狐人的読書メモ

大導寺信輔の半生-芥川龍之介-狐人的読書メモ-イメージ

あと、国木田独歩さんの『自ら欺かざるの記』をもじった信輔語録がおもしろかった。『書を捨てよ、町へ出よう』とはいうけれど、本屋さんで本を買って、あるいは図書館で本を借りて、すみやかに帰宅する自分を思い浮かべてしまった。

・『大導寺信輔の半生/芥川龍之介』の概要

1925年(大正14年)1月『中央公論』にて初出。『副題:或精神的風景画』芥川龍之介の半自伝的な小説。未完のまま絶筆となる。

以上、『大導寺信輔の半生/芥川龍之介』の狐人的な読書メモと感想でした。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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