狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『笑われた子/横光利一』です。
横光利一 さんの『笑われた子』は文字数3300字ほどの短編小説です。吉の将来について毎夜開かれる家族会議。笑われた子を笑う仮面の象徴するもの。あなたは子供の才能に気づいてますか? 吉の凶な人生とヤバイラスト。自分の将来は自分で考えて決めよう!
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
大阪に修行にやろうと父が言う、大阪は水が悪いからと母が反論する、百姓をさせればいいと兄が主張し、信楽焼の職人にしようと姉が提案する――夕食後、また吉の将来について、家族会議が開かれていた。
その夜、吉は夢を見た。口が耳まで裂けた、大きな顔に笑われた夢だった。逃げても逃げても逃げられず、大きな顔はいつまでも、にやりにやりと笑っていた。何を笑っているのか吉にもわからない。その馬鹿にしたような笑顔……。
目を覚ましてからも、夢で見た大きな顔が頭から離れず、算数の時間は窓の外ばかり見ていて、習字の時間は大きな顔の絵を描いて、下校の時間は挨拶が悪いと、その日吉は学校で三度教師に叱られた。
家に帰った吉は、鏡台の引き出しから剃刀を持ち出して、井戸の釣瓶の重しにされていた欅の丸太を取り外し、屋根裏へと上った。それから毎日同じことを繰り返した。
一か月後、吉は学校を卒業するも、その後の進路は未だまとまっていない――そんなある日、父が剃刀の切れ味が悪いと言い出したことから、吉の所業が発覚する。屋根裏から出てきたものは、吉が彫った仮面だった。
叱られると吉は思うが、意外なことに仮面を見た父はそれを褒める。そんな吉の父を、仮面が見下して、馬鹿にしたような顔で、にやりと笑っていた――その夜、父と母は、吉を下駄屋にすることを決める。
吉は下駄屋となった。吉の作った仮面は、彼の店の鴨居の上で、絶えず笑っていた。何を笑っているのか誰も知らなかった。
それから二十五年の歳月が流れた。吉は下駄をいじり続けて貧乏した。父と母はこの世を去っていた。
ある日、吉が久しぶりに仮面を仰ぐと、それは鴨居の上から馬鹿にしたような顔でにやりと笑った。吉は腹が立ち、悲しくなり、また腹が立った。
「貴様のお蔭で俺は下駄屋になったのだ!」
吉は仮面を引きずり降ろすと、鉈を振るってその場で仮面を二つに割った。暫くして、彼は持ち馴れた下駄の台木を眺めるように、割れた仮面を手にとって眺めていた。が、ふと何んだかそれで立派な下駄が出来そうな気がして来た。すると間もなく、吉の顔はもとのように満足そうにぼんやりと柔ぎだした。
狐人的読書感想
さて、いかがでしたでしょうか。
この小説は、「自己の中にある何か」との対決の物語で、最後はその象徴としての仮面を打ち割ることにより、自己に打ち勝つ爽やかなお話――なんかじゃねー! と思ってしまうのは、ひねくれものの僕だけ?
以下順を追って読書感想を書いていきたいと思います。
『笑われた子』を笑う「芸術的才能」
まず、タイトルの『笑われた子』である吉は、何に「笑われた」のでしょう?
それは吉の夢の中に現れた大きな顔であり、それをモチーフにして吉の彫り上げた仮面です。この仮面は、吉の内面にある何かを象徴していることは間違いなさそうですが、それは何なのでしょうか?
僕は、仮面が象徴しているものは、吉の「芸術的才能」なのではないかと感じました。この仮面の評価については、「うむ、こりゃ好く出来とる。」と言った父親の言葉しかなく、なのでもちろん、それは深読みのし過ぎ、といった指摘もあるかもしれませんが。
しかし、どこか飄々としているような吉の少年時代や、学校で三度叱られてしまうほど一つのことに集中する姿からは、どこか天才性を感じさせるところがあるように思うのです。
仮面のことが家族に知られそうになるときも、吉は激しく抵抗していて、これは単に、剃刀をダメにしたのがバレて、怒られるのが嫌だったからだと読み取れますが、芸術作品をひとに見られる恥ずかしさのようなものが、含まれているようにも感じました(またしても深読みの嫌いは否めませんが)。
よって、
「大きな顔=仮面=芸術的才能」
として、以下続けていきます。
あなたは子供の才能に気づいてますか?
誰かに笑われた! と思うと、嫌な気分になって、悲しくなったりイライラしたりしてしまい、だからこそ笑われたくない、と思うわけなのですが、いかがでしょうか? だからこそ、自分のコンプレックスを武器にして笑いを取っているお笑い芸人さんなんかを見ていると、本当に凄いなあ、と思わされてしまいます。
仮面を自分のコンプレックスに見立てても、一つ自己確立の物語が作れそうですが、今回は前項でも述べたように、「仮面=芸術的才能」だと、僕は考えました。
ではつぎに、「仮面=芸術的才能」は、誰を笑ったのでしょうか?
具体的にその描写があるのは、二人の人物に対してであり、一人は吉の父親、もう一人は言うまでもなく吉です。
では「仮面=芸術的才能」は、父と吉の、何を笑ったのか。
吉の父親が、仮面の出来を見て、吉を下駄屋にしようと決めたところから察するに、「仮面=芸術的才能」と解釈するならば、吉の父親には吉の芸術的才能を見抜く目がなかったのだと、読み取ることはできないでしょうか。そして、そのことを嘲笑しているのだとすれば、(僕の中では)つじつまが合うように思うのですが、いかがでしょうか?
さらに、仮面が吉を笑ったのは、己の才能に気づかない滑稽さ、を冷笑したのだとしたら、どうでしょう? あるいは、家族に言われるがまま下駄屋となった吉の在り方は、家族に依存し、主体的な決断力を欠いた姿である、とはいえないでしょうか? この姿もまた、仮面の嘲笑の対象となりうるように思えます。
よってここでは、
「仮面が父を笑った=我が子の才能を見抜く目のなさ」
「仮面が吉を笑った=自分の才能に気づかない姿、主体性の欠如」
として、以下続けます。
吉の凶な人生と『笑われた子』のヤバイラスト
最後は(最後だけに)オチの部分です。
重要なところなので、あらすじでも引用しましたが、オチの部分に、主題を含ませる作品は多く、『笑われた子』にもこのことは当てはまっているように思いました。
下駄屋になって二十五年を経た吉は、「貧乏した」と記述されているところから、その名のとおり「吉」な人生を送ってきたとはいえなさそうです(どちらかといえば「凶」な人生といえそうですよね)。
そして久しぶりに見た、自分を馬鹿にして笑ったような仮面に、吉は突如心乱され、ついにはそれを鉈で叩き割る、という行為に及びます。
仮面を家族からのプレッシャーや自身のコンプレックスに見立てるならば、それを叩き割る行為は自身の心の葛藤と向き合い、それに打ち勝つ姿と映りそうですが、前述のとおり、僕にはそうとは読み取れず、「仮面=芸術的才能」としました。
ゆえに吉は、鉈で仮面を叩き割ることで、自身の芸術的才能をも叩き割ったのです。
だからこそ、ラストシーンで、吉がまた下駄屋に立ち戻っている描写が、なされているのではないでしょうか?
はじめは僕も、仮面を割ることで、「仮」の部分を切り離し、真実の「面」を手に入れた……、爽やかな、自己との対決の勝利を思わせるラストなのかなあ、と考えなくもなかったのですが……、吉の最後に浮かべた「満足そうにぼんやりと柔ぎだした」表情からは、どうしてもそうだとは思えませんでした。
ちょっと余談的なお話になってしまうかもしれませんが、仮面はもともと井戸の釣瓶の重しに使われていた欅の丸太で、これは重しに使われていたことからもわかるように重いので、履物である下駄の素材としては不適切なものです。
なので、割れた欅の仮面から立派な下駄が出来ようはずもなく、二十五年も下駄屋をしていた吉が、そのことを知らないはずもなく――ここから吉の精神的混乱が、かなりひどい(ヤバイ)状態であることが察せられます。
意味深なラストの描写からも吉のその後が心配されるところですが、はたして……。
将来のことはちゃんと自分で考えて決めよう!
ゆえに、僕の中での『笑われた子』は、主体的な決断力を発揮できなかったために、親の言われるままの職についた結果、自らの才能を無駄にしてしまった少年の物語、なのではないかなあ、と結論しました。
才能が、必ずしも開花しないというのは、真実の一面を表しているように思います。
吉の家族だって、真剣に吉の将来を案じて、あれこれと考えてくれていたわけであって、決して悪意があったわけではなく、であれば、我が子の才能を見抜けなかったからといって、吉の父親を責めることはできないでしょう。
家族以外で、吉の才能を見抜ける誰かに、吉が出会っていれば、吉の人生はまったく違ったものになっていたのかもしれませんが、そうはならなかったところに、世に埋もれてしまう才能、といったようなものを、見出すことができて、これはかなり現実的なお話のように思えるのです。
才能は「ギフト」ともいわれて、「贈り物」という言葉からは、あたたかなイメージを得ることができますが、才能とは、それほどあたたかいものではないんじゃないかな、と考えさせられるところでした。
そして一番ダメだったのは、吉の主体性のなさ、だったのではないでしょうか?
親の言うとおりにして、経済的に安定した職に就き、幸せになれる場合もあるでしょうが、もしそうならなかったとき、親や自分以外の何かを恨むのは、筋違いなようにも思うし、悲しいことのように感じます。
吉の場合も、たとえ才能には気づかなくとも、自分のやりたいことを見つけて、それを職業にすれば、たとえ貧乏でも、「仮面=才能」を壊すようなことにはならなかったのではないでしょうか。そしてもしも、そうやってやりたいことを仕事にできなかったとしても、一生懸命やった結果なら、腹立たしく思ったり、悲しんだりせずにすむんじゃないかなあ、とも。
そんなこんなで、
「自分の将来のことはちゃんと自分で考えて決めよう!」
ということで、これは若者向けの小説のように思いました。
もちろん、ここまで綴ったことは、あくまでも僕の狐人的読書感想であって、ほかにもいろいろな考え方のできる小説だと思います。
何かを始めるのに遅すぎるということはない、ともいわれるように、吉がその後下駄職人として、あるいは一念発起して彫刻家として、大成しないとも限らず(前項の最後にあんなことを書いておきながら……、ですが)、『笑われた子』は、若者のみならず、どんな世代の方が読んでも得るもののある小説です。
自信を持ってひとにおすすめできる、とてもいい小説だと思うのですが、横光利一 さんの他作に比べて、あまり評価されていないのは気になるところでした(他の作品が良過ぎるのでしょうか?)。
読書感想まとめ
「大きな顔=仮面=芸術的才能」
「仮面が父を笑った=我が子の才能を見抜く目のなさ」
「仮面が吉を笑った=自分の才能に気づかない姿、主体性の欠如」
これらから、吉が最後に叩き割ったのは自身の才能であることに着目し、「将来のことはちゃんと自分で考えて決めよう!」といった当たり前のことがじつは一番難しいといった教訓を得た小説でした。
おすすめのとてもいい小説です。
狐人的読書メモ
親目線で見るなら(おこがましくも僕が親目線って……、ですが)、子供の才能を見つけて、伸ばしてやることの難しさを実感させられる小説かもしれません。
天才は、誰かが見出すものであって、主体的な天才、というのは、かえって稀なようにも思いました。
(才能について考える読書感想はこちら)
- ⇒器楽的幻覚/梶井基次郎=音楽を弾くにも音楽を聴くにも音楽を書くにも才能が要る?
- ⇒道なき道/織田作之助=狐人の感想はなぜか俺TUEEE系⇒MMORPG(まじめな教育的感想もあります)
- ⇒たけのこ/新美南吉×怪獣家長×YouTuber×光と闇のED=親にもおすすめ!
・『笑われた子/横光利一』の概要
1922年(大正11年)初出。初出時のタイトルは『面』でした。改稿され、『笑われた子』となったのは1924年(大正13年)のこと。横光利一 さんは、この作品の自己解説(『内面と外面について』)で、この作品は5回ほど書き直しており、最後の部分にどうしても納得がいかなかったようで、完成に3年ほどかかったと語っています。さらに、この作品は新感覚的でなく、過去の芸術とも主張しており、その反面自身の作中で一番いいものになるのではないか、と思うことがある、とも言っています。……少なくともいい小説には間違いないと、僕は思いました。
以上、『笑われた子/横光利一』の読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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