読書時間:およそ10分。
あらすじ:君が僕に教えてくれた。僕は未熟な父親だけど、あすと一緒に暮らしていく中で、ちょっとずつ立派な父親になればいいのだと。僕と君とあすと、明日へ――
*
――あなた、滂沱の涙を流さないでよ。ごめん、昔のこと、一気に思い出しちゃって。全財産を寄進しようとしたときのこと? そうだ、忘れてたよ、いまからでも遅くないかな? シュッシュッってして、また忘れさせてあげようかしら。ははは、僕はあすみたいにはいかないよ、そうそうあすがハチに刺されたこともあったよな、あすを傷つけるやつを僕は絶対に許さない、あのときの気持ちはいまでも忘れていないよ。その気持ちは忘れないでいていいけれど、ハチを一匹残らず駆除しようとしたことは忘れてね。あすが自分のおこづかいで、僕のために入浴剤を買ってきてくれたこともあったな。たしかあれって、あなたが自分で買ってきたものじゃなかったの? しまった、内緒にしておく約束だったのに。本当はわかってたけど、……これからも大変なことがあるでしょうけど、がんばりましょうね。なに、きっと楽しいことのほうが多いはずだよ、これまでみたいにね。そうね、あすがお嫁さんになる日が楽しみね。あすをほかの男になどやるもんか、一〇〇パーセントやるもんか! 言うと思ったわ。言わせたのかと思った、……これからもよろしく。こちらこそ。――
*
「さあ! ここが、今日からあすが暮らすおうちでちゅよー」
「あなたが赤ちゃん言葉を使うのって、やっぱりすごく変よ」
「赤ちゃんと話すのに、赤ちゃん言葉を使うのは当たり前だろ? フランスに行けば英語を使うのと同じだよ」
「パリなら大丈夫だとは思うけれど、あなたがフランスに行ったら、できればフランス語を使って。それに、『今日から明日』が暮らすおうちっていうのも、なんだかおかしいわね」
「英語でいいじゃないか! 明日でいいじゃないか! 今日からあすが、ずっと一緒にいてくれるんだぞ? 僕たちの娘の『明日』が……、本当に、君たちが生きててくれて、本当によかった……」
「あなた……」
「母子ともに危ないかもしれないと聞いたときには、目の前が真っ暗になった。僕はあのときほど真剣に祈ったことはないよ。ふだんは神様なんて信じていないくせにさ、神でも仏でも悪魔でもなんでもいい、二人の命を助けてくれるんならなんだってする、僕の命だってくれてやる、って」
「あなたがいなくて、私とあすはどうやって生きていくの?」
「……そう、だから最後にこう付け足したんだ。だけどもしできることなら、家族みんなで仲良く生きられますように、って」
「神さまはお祈りをきいてくれたみたいね」
「ああ、だから近々、神社に全財産を寄進しようかと思う」
「……全財産がなくて、私とあすはどうやって生きていくの?」
「いや、しかし、これほどの恩恵を受けておきながら、何もしないわけにはいかないだろ? てか、僕と全財産と、君にとってどっちが大事なの?」
「一万円とかでいいじゃない。あなたと全財産と、どちらが大事かなんて、選べるわけないじゃない」
「一万円で僕のこの感謝の気持ちが表せると思う? てか、そこははっきりと選んでほしいんだけど」
「気持ちって、お金で表せるものなのかしら?」
「僕と全財産とを選べない君がそれを言うの?」
「やれやれ、それじゃあ、あなたを選ぶしかないようね」
「なんで、しょうがないわね、みたいな感じなの? てかこの場合、僕は全財産を寄進していいの? 気持ちはお金じゃない、ってことで諦めるべきなの?」
「あうぅぅぅぅぅ」
「ほら、あなたが変なこと言うから、あすがぐずり出したじゃない。寄進のことはもう忘れなさい、あすのために」
「あ、それはすまないことをした。寄進のことは忘れて、早くうちに入ろう、あすと君のために」
「あう、あう」
「……あら、なんだかあすの機嫌なおったみたい」
「うちが気に入ってくれたのかな?」
「……部屋の芳香剤変えた?」
「ああ、いつものやつがたまたまなくなってて」
「『ディフュージョンプレミアムローズアロマ』? いい香りね」
「あう」
「あすも気に入ってるみたいよ」
「ならばいますぐ、あるだけ注文するよ!」
「ならばいますぐ、そのスマホをしまって」
*
「すぅ……すぅ……すぅ……」
「この子、布団やパジャマに『ぐっすりーぷスプレー』をシュッシュッってすると、本当に寝つきがいいのよね」
「そんなにいいの、それ? シュッシュッってするだけって、なんとなくそれだけ聞くと、あまり効くようには思えないんだけれど」
「うん、幼稚園のお昼寝の時間に、あすがなかなか眠らなくて、先生たちも困ってたみたいなんだけど、これをお願いしてからぐっすりみたい。まだ小さいから、かなり少なめに調整してるんだけど、それでも効果抜群」
「……思ったんだけどさ」
「何?」
「ほら、生まれたばかりのあすを連れてうちに帰ってきたときもさ、部屋に入ったとたんにぐずりが止まって、芳香剤の香りに反応しているみたいだったろ? あすは嗅覚がすごくいいんじゃないかな? だから、香りのヒーリング効果みたいなのが効きやすいんじゃないかと思って」
「そうかしら?」
「それでさ、僕は思うんだけど、あすは将来すごい芸術家になるような気がするんだ」
「……」
「たしか文豪の梶井基次郎は、人一倍嗅覚が優れていて、真っ暗闇の中で何メートルも離れた先にある花の匂いもわかったらしい、って聞いたことがある。小説だけじゃなくてさ、他にも、画家でも音楽家でも、五感が鋭くて、それで感じたことをすばらしい絵画や音楽に残した人がたくさんいるじゃないか。あるいは事故にあったり、先天的に、五感の一つを失ったことで残された感覚が鋭くなって、大変な芸術を残した例だってある」
「……」
「あすは嗅覚が優れている、ということは、将来偉大な芸術家になるかもしれない。いや、きっとなるに違いないんだ。いまから優れた芸術に触れさせておいたほうがいい」
「……」
「そのためには有名な絵画や高級な楽器を買い集めて、毎日触れさせるのがいいと思うし、海外の美術館や有名な演奏会にも連れて行ってやりたいし、それに――」
「ねえ、あなた」
「うん?」
「(シュッシュッ)、さ、今日はこの枕を使って」
「ははは、僕はあすみたいには……、すぅ……すぅ……すぅ……」
「おやすみなさい、あなた。寝言は寝てから言うものよ」
*
「あす!」
「あなた、仕事は?」
「そんなことよりもあすは!」
「お父さん、いたかったよお」
「ああ、あす! よかった! 生きていてくれたんだ!」
「少し大げさよ、学校でハチに刺されたくらいで。あなた、過保護はよくないわ」
「何言ってんだよ! ハチに刺されて死ぬことだってあるんだぞ! 何とか騎士ショックとかあるんだぞ!」
「アナフィラキシーショックね。たしかにアーサー王は、ランスロットショックとかモルドレッドショックとか、衝撃的なことも多かったでしょうけれど」
「そんなのどうだっていいんだ! ああ、ちくしょう! なんて恐ろしいやつらなんだ、僕のかわいいあすを刺すなんて! 許さん、許さんぞ! あすを傷つけるやつを僕は絶対に許さない! この世から、一匹残らず駆除してやる!」
「……それで、その袋の中身なのね」
「ああ、そうさ!」
「『ハチアブショットジェット』と『スズメバチフルメタルジャケットジェットプロ』」
「ああ、これらの二大兵器で必ずやつらを根絶やしにしてやる!」
「二丁拳銃みたいにかっこよさげに構えないで、そんなにかっこよくないから、……まあ、この二つはいいわ。『ハエソフトポイントジェット』、『ゴキホローポイントジェットプロ』、『ムカデパンジステーク』は?」
「予備兵装だよ。ハエやゴキブリやムカデに効くんだからハチにだって効くだろ?」
「……そうかもしれないわね。じゃあ、ダニ・ノミ用やアリ用、ネズミ用、トラジラミ用は必要?」
「戦いのさなかに、やつらの耐性が強化されて、ハチ用が効かなくなるかもしれない。念のためさ」
「一応わかったわ。で、各種殺虫剤がこんなに必要? ドラッグストア一つぶんほどの殺虫剤が必要なの?」
「備えあれば――」
「返してきなさい」
「長い戦いを――」
「返してきなさい」
「――はい」
「……お、お父さん、あす、しんぱいしてくれてうれしかったよ」
「あす、過保護はよくないわ」
*
「あなた、おかえりなさい! お風呂にする? ごはんにする? それともお風呂にする?」
「ただいま、あす。だけど、あすはもうおままごとって歳じゃないんじゃないかな?」
「それはそうだけど、まあいいじゃない! それより、お風呂にする? お風呂にする? お風呂にする?」
「じゃあごはんにしようかな」
「私の言うことをちゃんと聞かないあなたに、食べさせるごはんがあるとでも思うの?」
「……あ、あす、お母さんみたいなこと言うようになったな。やっぱりお母さんの子だな」
「さ、お風呂に行こうよ!」
「ははは、ひっぱるなよ……、ん? いい香りがするなあ、ひょっとして『お風呂マン』か?」
「しかも『神泉』だよ! お父さん、最近仕事で疲れてるって言ってたから、わたしがおこづかいで買ってきたんだよ!」
「……あす」
「あはは、お父さん、こんなことで泣かないでよ!」
「い、いや、うれしくって、つい……」
「ほら見て! ほかにも『ウル肌』、『地獄めぐりシリーズ』、『ファンタジックバス』、『泡盛~る』、各全種類買ってきたんだよ!」
「……そ、そうか。たくさん買ってきたんだな」
「うん! だってお父さんの子だもの!」
「……あす」
「おこづかい全部使っちゃったけど……、あ、お母さんにはないしょにしてね」
「わかった。よーし、じゃあ今月はおこづかい倍増だ!」
「それじゃあ意味ないよ!」
「ははは、そうか。よし! じゃあ久しぶりに、お父さんと一緒にお風呂に入ろうか!」
「あ、わたしはもうそんな歳じゃないから、お父さん一人で入ってきてね!」
「あす……」
*
「お母さん! タンスの中の服、虫食いで全部ダメになっちゃってるよ!」
「そう?」
「すごくお気に入りの服だったのに……。なんでちゃんと防虫剤を入れておいてくれなかったの?」
「ごめんなさい」
「……ねえ、お母さんって、こういうときになんですぐあやまるの?」
「だって、あす、怒ってるでしょ?」
「……そうだけど」
「お母さんの不注意で怒らせちゃったんだから、あやまるのは当然のことじゃない?」
「……そうかもしれないけど」
「私、何かおかしなこと言ってるかしら?」
「……おかしなこと言ってないよ! 言ってないけどなんかおかしな気がするんだよ! お母さんが怒らないのってなんかおかしいよ!」
「……」
「うまく言えないけど、こういうときって、『あなたがちゃんとしておけばよかったじゃない』みたいな、普通のお母さんはそんな感じでしょ!」
「あすにも説明したことあるでしょ? 私はできるだけ感情を抑制して生きなければならないの。そうしないと――」
「わかってる! わかってるよ! わかってるけど、なんか冷たい感じがしていやなんだよ! わたしがそういうふうに思ってるってこと、ただ言っておきたかったんだよ!」
「……」
*
「……ねえ、僕の席に、こんなものが置いてあるんだけど」
「マウスウォッシュ、ね」
「……そう、どうしてこんなものが置いてあるんだろう?」
「あすが、あなたにそれ使ってって」
「……僕って、口臭い?」
「私はわからないけど、あの子は鼻が敏感だから」
「……あのさ」
「?」
「最近、こういうこと、けっこうあるよな」
「うん」
「最近あまり口もきいてくれなくなったし」
「うん」
「僕はさ、こういうことがすごく悲しいよ」
「……うん」
「悲しくて悲しくて悲しくて悲しくて、それで本気であの子を憎んでしまえば、この悲しみが少しでもなくなるんじゃないかって、そんなことを考えてしまう自分が本当に悲しい」
「……」
「ひょっとして、僕は父親失格なんじゃないかな」
「そんなことないわ」
「だって父親だったら、娘を憎んで楽になりたいなんて、そんなこと考えないんじゃないのか?」
「じゃあ、あなた本気であの子を憎むことができると思うの?」
「それは……」
「ねえ、親だって人間でしょ? 人間って、たとえそれが親であっても、子であっても、ずっと誰かを、完全に好きでい続けることなんてできないんじゃないかしら。今日は好きが三〇パーセントで、嫌いが七〇パーセントだったとしても、明日には好きが七〇パーセントで、嫌いが三〇パーセントだってこともあると思うわ」
「……そうだね」
「それにあなたは長い間ずっと眠っていたでしょう? 精神年齢は肉体年齢よりもはるかに若いし、私たちには親だっていなかった。だから子供の反抗期だって経験してなくて、だからそれをちゃんと理解できてない。わたしもあなたもまだまだ未熟、しっかりした親だなんて言えないかもしれないけれど、あすが大人になっていくのに合わせて、しっかりした親になっていければいいんじゃないかしら」
「……そうだね、……そうだったね、ごめん」
「あやまらないで。それより、これからも、悩みごとがあればまたいまみたいに、ちゃんと私に話して」
「うん。……ところで、いま僕は君のことが一〇〇パーセント好きなんだけど、君は僕のこと何パーセント好き?」
「〇パーセント嫌いよ」
「うん、ありがとう」
「どういたしまして」
*
『お父さん、お母さんへ。これまでたくさんひどいことして、ひどいこと言って、ごめんなさい』
<あす、あくと、ふぉー、らいふ、、、ごーず、おん!>
※
読んでいただきありがとうございました。
※オリジナル小説は、【狐人小説】へ。
※日々のつれづれは、【狐人日記】へ。
※ネット小説雑学等、【狐人雑学】へ。
※おすすめの小説の、【読書感想】へ。
※4択クイズ回答は、【4択回答】へ。
コメント