第1話 一人暮らしのガッルスガッルスドメスティクス

ガッルスガッルスドメスティクス

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第1話 一人暮らしのガッルスガッルスドメスティクス

 

ひとりぐらしで、ひきこもりの僕が、お隣さんに恋をした。

もしも世界中の人達に、そんなことが知れたなら、いったいどんな顔をして、僕のことを見るんだろう?

そんなことを考えてひどく憂鬱な気分になる。

僕はノートパソコンの画面に向かって、収入源となる記事を、せっせと作る。

そうやってただひたすらに文字を打ち込んでいる間はいい。

目の前の文章のこと以外何も考えずにすむのだから。

だけど。

キーを叩く手がふと止まったとき、そんなふうにして意識の集中が途切れたときに、思考は音もなく去来する。

ノックもせず、挨拶もなく、勝手にドアを開けて。

まるで気心の知れた古い友人達のように。

ひとりの友達もいない僕が、こんな表現を使うのは、なんだかおかしい気がしないでもないけれど。

僕にとっての思考というものは、決して楽しい友人ではない。

多くの場合、彼らは僕を憂鬱な気持ちにさせる。

長く居座ってなかなか帰ってはくれない。

こうなってしまえば、もうあきらめるしかない。

こんなとき、僕はすべての作業を放り出して、寝てしまうことにしている。

座椅子をたおして、背もたれと一緒に仰向けになって、天井のシーリングライトを眺めてから、そっと目を閉じる。

そして眠りが訪れるのを待つ。

ただただ待つ。

その間にも、不愉快な友人達は、僕の頭の中で、のべつまくなしに喋り続けている。

(ひとり暮らしでひきこもりの君がお隣さんに恋をした。もし世界中の人達がそんなことを知ったら、いったいどんな顔で君のことを見るんだろうか?)

と――。

 

その人と初めて出会ったのは、4月1日の金曜日、午前9時55分。

なぜ、こんなにも正確な日時を把握しているのかと訊かれたら、それが僕のライフスタイルの一部であるからに他ならない。ライフスタイルの一部とは、すなわち金曜日の午前中のみ外出する習慣を指している。

午前10時には近所にある図書館とスーパーマーケットが開く。

まずは図書館で1週間分の本を借り、次にスーパーマーケットにてこちらも1週間分の食料を買い込む。

そしてすみやかに部屋へと戻る。玄関の鍵をきちんとかける。

今度それが開けられるのはまた来週の金曜日だ。

週に一度の外出が、金曜日であるのに、特別な意味はない。

人の姿が少ない平日の午前中でも、特にそれを少なく感じられるのが、金曜日であるような気がする、というだけの理由。別に木曜日でも水曜日でもかまわない。図書館が休館となる月曜日だけは避けたいところではあるけれど。

そんなわけで、4月1日の金曜日、午前9時55分に、僕はいつものように部屋を出た。返却する本の入った、大きな買い物袋を肩に下げて、玄関ドアの鍵を開けて、外に出て、ロックのボタンを押す。

高い電子音が、四階の廊下に響き、施錠の完了を告げる。

5階建て6畳のワンルームマンション。

都心から離れた郊外にある、一人暮らし用マンションのよい点は、なんといっても家賃が安いということだ。

電車に乗って30分もあれば、都心部の街にも出られる。

ひきこもりである僕が、電車に乗る機会はめったにないから、確かなことは言えないけれど、それほど不便は感じないように思う。

だから、通勤のために高い家賃を払って、都心に住む人達の気持ちが、僕にはいまいちぴんとこない。

おそらく、満員電車というものに、乗る機会がないからだろうと、想像するわけなのだけれど。

満員電車というものは、多少高い家賃のマンションに住んででも、長い時間乗っていたくない類の乗り物なのだろう。

そんなふうに考えられる僕は、ひょっとしたら、とても幸せな奴なのかもしれない。

僕は、満員電車について考えるとき、巨大な蛇をイメージする。

巨大な蛇が街々をぐるぐる回っている。

駅で乗降口から(蛇の乗降口?)、人々を体内にとり込んでいく。

蛇の胃の中は、大勢の人間で、ぎゅうぎゅう詰めになっている。

人々は、蛇の胃腸を通過して、再び蛇の乗降口から、糞となって排泄される。

糞となった人達が、会社に行って仕事をし、夕方になると、また蛇に呑まれて帰っていく。

糞になった人達は、いったいいつ、人間に戻るのだろう?

 

僕はドアノブに手をかけ、軽く引き、ちゃんと鍵が閉まっているのを確認する。

家賃の安いマンションにエレベーターはついていない。

だから、安いマンションの住人は、マンションを出るときには階段を下り、部屋に戻るときには階段を上る。

つまり、安いマンションの住人である僕も、その例外ではなく、今から階段を下りなくてはならない。

僕は階段に向かって一歩踏み出した。

と、ちょうどそのとき、進行方向にある隣の部屋のドアから、鍵の開く音が聞こえてきた。

狭い廊下でドアが開けば、その隙間をくぐって進むのは難しい。

だから、扉を開けたお隣さんが、部屋から出てきて鍵をかけ、階段に向かって歩き出すのを、僕は待たなくてはならない。

タイミングが悪いな、と僕は思った。

これまでに隣の人と鉢合わせたになったことなんてなかった。

だから、どんな人が住んでいるのかも知らないし、知りたくない。

普通の人は、この時間、仕事に出かけているはずだ。

だからこそ、これまでは一度も顔を合わせずにすんだのだ。

それなのに、どうして?

僕はそこではっと思い至る。

 

お隣では昨日引っ越しがあったようだ。

前の住人が、そこを出ていき、新しい住人が、そこに入ってきた。

僕はそれを、外から漏れ聞こえてくる、音で知った。

安いマンションの壁でも、一応音は遮ってくれる。余程うるさくしない限り、隣室の声は聞こえてこない。賃貸情報にあった、鉄筋コンクリートの記載に、どうやらウソはなかったらしい。

しかしながら、安いマンションの玄関ドアと窓は、ほとんど音を遮らない。

よって、廊下の物音や階段を上り下りする足音、子供の泣き声なんかが、いやによく耳につく。

だからもしも、誰かが僕を見つけにきても、僕はそのことをいち早く察知できるだろう。そしてもしも、その誰かが僕を殺そうとしていても、応戦の準備に必要な、十分な時間が与えられることになるだろう。

僕は注意深く、音を立てずに行動する。

小さな台所の収納から、オークションサイトで購入した、武骨なボウイナイフを取り出して、玄関ドアの前で構える。

玄関チャイムの音が鳴るのを、ただじっと待ち受けて、つぎに訪問者が何か言うのに、そっと耳をすませる。

だいたいその訪問者は、ネットで購入した商品を届けにきた配送業者か、あるいはインターネットか何かのセールスマンだ。

僕は小さく息を吸い、小さく息を吐く。

とても静かに。

相手に気配を悟られないように。

世界に僕の存在を知られないように。

もちろん、こんなことは無意味だった。

何の意味もない。

もし相手が短機関銃でも持っていて、それで連続射撃をすれば、発射された弾丸は、薄い玄関ドアをいとも容易く貫通して、僕をも簡単に貫くだろう。

僕は死ねる。望みどおりに。

でも、いったい、どこの誰が、どんな目的をもって、僕なんかを殺しにきてくれるだろうか?

ともあれ。

お隣では、昨日引っ越しがあったようだ。

外から聞こえる物音や、引っ越し業者の声によって、僕はそのことを知っていたのだった。

 

隣の部屋からお隣さんが出てきた。その横顔が僕の目に飛び込んでくる。

僕はとっさに、視線を下にそらそうとして、それができなかった。

お隣さんについて、まず印象的なのは、その黒髪だった。まるで、作り物のようにまっすぐで、長い。横顔は美しくもあり、愛らしくも感じられる。白のブラウスに、黒のロングスカート、ニットのカーディガン。なぜか、その組み合わせは、完全を体現している。

お隣さんは、僕の存在に気がついて、はっとして僕の方に顔を振り向けて、固まってしまう。

僕はすでに固まっている。

この世界に、同じ場所で、ふたりの人間が、同時に動けなくなってしまうような何かが、持ち上がっているのだろうか。地球が回るのをやめてしまったのだろうか。時が流れることを忘れてしまったのだろうか。

何かが狂っている。

狂っているのは僕。

それはわかりきっていること。

世界中で、狂っているのは、この僕だけだ。

しかしそんな事柄さえも、じつは後になってから考えたことで、その瞬間には何も考えていなかった。

ただただ、僕はお隣さんに魅入られ、お隣さんは目を見開いて僕を見ていた。

こんなことは、すぐにでもやめなければいけなかったのに、それができなかった。

………………。

いったい、どちらから目をそらして、どのようにして部屋に戻ってきたのか、どうしても思い出せない。

気がつくと、僕はノートパソコンの前に座っていた。

 

その後再び外に出た僕は、お隣さんの部屋の前を足早に通り過ぎて、階段を素早く下りた。

エントランスを出て、そのままの歩速で図書館に向かった。いつもの時間を少し過ぎてしまったけれど、そんなに気にならなかった。

天気がとてもよくて、空が青いと、僕は思った。

普段だったら、たとえ苔生した小さな月の放つ、淡い光のような薄緑色をしていたとしても、僕は空の色なんか大して気にもしなかったに違いない。

空気が澄んでいるように感じられ、図書館へと続く並木道の桜が、ちょうど綺麗に咲いていた。

綺麗に咲いていた?

今思い出しても笑ってしまいそうになる。

この世界に、綺麗なものがあるだなんて、まるで信じていないくせに。

だけど、そのときの僕は、確かにそう思っていたし、そう感じていたと思う。

それを完全に否定するのは難しい。

僕がいくらそれを認めたくなかったのだとしても。

 

用事をすべてすませてしまってからも、僕は、なんだか落ち着かない一日を過ごした。

なにも手につかなかった。

文章をつくろうとしても、本を読もうとしても、うまくできない。

眠ろうとしても眠れない。お隣さんのことが頭から離れない。

お隣さんについての思考が、次から次へとやってきて、いつものごとく、全然帰ってくれない。

いつまでも居座り続ける。

頭の中をぐるぐると巡る。

手を取り合って踊ってる。

そうやって、僕の頭の中を占拠した、たくさんの思考達が、楽しそうに笑ってる。マイムマイムが聞こえてる――。

そんな状態がその日の夕方まで続いた。永遠に続くかと思った。

だけど、部屋の外から物音がして、ぴたり、マイムマイムの曲がやむと、彼らはようやく踊るのを止め、僕の頭からさっといなくなった。

隣の部屋のドアが開く音。

僕は何かを考える前に、すでに行動を起こしていた。

座椅子から勢いよく立ち上がり、急いで部屋の玄関ドアを開けた。

いったい何をやっているんだ。

そんなに慌てて、もしもお隣さんに不審の目で見られたりしたら、いったいどうするつもりだったのか。

後になって思う。でもそのときは何も考えていなかった。

何も考えていないなんて状態が、まさか僕に訪れるだなんて。

だけどそんなのはただの杞憂に過ぎなかった。

優しいお隣さんがそんな目で僕を見るわけがない――、というわけではなくて、杞憂に終わった事象について、お隣さんの優しさはまったく関係がない。

もちろんその日視線を交わしただけのお隣さんが、優しいか優しくないか、なんてわかろうはずもなく、それは優しそうなひとだったという、僕の勝手な感想であって、本当のところは何も知らない。

しかしながら言うまでもなく、僕はお隣さんが優しいひとであることを信じている。いやいや疑ってさえいない。でもとにかく、僕がお隣さんの訝しげな視線を浴びずにすんだのは、とっさに僕が追い求めたその姿の主が、お隣さんではなかったからだ。

いや。

あるいはそれは、お隣さんだったのかもしれないけれど、僕がもう一度、一目見たいと望んだお隣さんの姿ではなかった。

僕が目にしたのは、階段に向かう男の人の背中だった。

僕の部屋のドアが開いた、その音に気づいたそのひとは、足を止めて僕の方を振り返ろうとした。僕は反射的に顔を俯けた。

そのまま時をやり過ごす。

少ししてから、足音が聞こえて、その足音は階段を、一定のリズムで下っていく。

僕の頭は混乱していた。

その男の人は確かに隣の部屋から出てきた。

だからその男の人はお隣さんには違いない。

でも昼間隣の部屋から現れたのは、作り物のように素敵な長い黒髪の、美しくも愛らしい、お隣さんだった。

つまりは、一人暮らし用マンションの一室から、別の二人の人物が現れたことになる。

女性と男性。

男と女。

わけがわからない。

いやいや。

もちろん。

いくつかの可能性は考えられる。

思考が再び僕の頭に帰ってくる。

嫌らしい、憎々しげな、笑みを浮かべて。

 

ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

遠くから誰かの謝る声が聞こえて、近くで誰かの謝る姿が見えた。

遠くて近い。

とても不思議なことに。

男が何かを怒鳴りながら、ズボンと下着を脱がした誰かのお尻に、煙草の火を押しつけている。

誰かはひたすらに謝りながら、煙草の火が皮膚に触れた瞬間、悲鳴を上げた。

自動的に。

じつは、誰かが、煙草の火の熱さなんて、もう感じてはいないのだということを、僕はなぜか知っていた。

最初は熱くて、でも、何度も何度も何度も何度も、押しつけられるたびに、それが熱いんじゃなくて痛いんだと感じるようになって、やがて何も感じなくなっていた。

だけど。

悲鳴を上げないと、熱がらないと、痛がらないと、それをちゃんと男に伝えないと――、いつまで経ってもおしおきは終わらない。

悪いことをしたのだから、熱い思いや痛い思いをしなくてはならないのだ。

やがて男も自分のズボンを脱ぐ。ベルトを外し、チャックを下し、パンツと一緒にズボンを脱ぐ。

誰かは思う。

今度は苦しいだ。

熱いや痛いよりはずっとマシだ。

僕は思う。

マシなもんか。

どうせ何も感じやしない。

だったら僕は、熱いや痛いのほうがいい。

それの意味は誰かにはよくわかっていない。

だけど、なんとなく、それは恥ずかしいことのような気がする。

やってはいけないことだと感じている。

なぜならそれは、人間の尊厳というものを、踏み躙る行為だから。

もちろん幼い誰かに、そんなことがわかろうはずもない。

男が誰かの顔に今度は自分の腰を押しつける。

誰かの口の中が、それで、いっぱいになる。

男が誰かの頭を掴んで、腰を動かすたびに、喉の奥を突かれて苦しい。

苦しいのだとアピールする。

だらだらと、唇から涎を垂らして、音を鳴らして鼻の穴から息をする。

鼻水で呼吸をするのが難しい。

だから苦しい。

僕は考える。

どうしてあの先生は、100点のとれるテストを、作ってくれないのだろう。

あの先生だけが、いつも最後に、わけのわからない問題を一問くっつけて、生徒達は誰もその問題に正解することができない。

だから絶対に100点満点がとれない。

そのせいで、誰かが男におしおきされることなんて、考えないのだろうか?

想像力の欠如。

大人のくせに。

先生のくせに。

だけど先生に、面と向かってそれを言うわけにはいかない。

通知表の成績にひびくかもしれないから。

先生の前では、いつも鏡の前で練習する、いつもの笑顔を作って、頭の中で、聞こえのいい文章を瞬時に考えて、自動的に口にする。

ひょっとして、と思う。

ひょっとして、先生はこれを知っていて、わざとそんな意地悪をするのだろうか?

先生と男はじつはグルで、裏で会ってはこのことを話し、誰かを嘲笑っているのかもしれない。

だんだん男の息が荒くなり、動きがさらに激しくなる。

ああ。

そろそろだな、と僕が思ったとき、暗転する。

 

そこに男はもういない。代わりに女がいる。

誰かはずいぶん成長している。

まだ子供であることに変わりはないようだけれど。

「あんたなんか産まなきゃよかった」

誰かの言った言葉に対して、女が誰かにそういった。

それを聞いて誰かは理解した。

やっぱり。

やっぱりあのことを女は知っていた。

仕事が忙しいふりをして、見て見ぬふりをして、ちゃんと知っていたのだ。誰かのために男と離婚したふりをして、自分が男から離れたかっただけだったのだ。

なんで僕を産んだりなんかしたんだ、誰がそんなことを頼んだりしたんだ。

誰かは女にそう言った。

ひどいことを言ったと僕にはわかる。だけど誰かにはわからない。

どんなときにも、何をしていても、嫌な考えが頭の中をよぎる。

眠れば男の夢を見る。

新しい環境になじめず、そのままずるずると時間が過ぎる。

もう痛くも熱くもされないけれど、そこでも誰かはやっぱり苦しい。

苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて――。

ある日その苦しさに耐え切れなくなって、つい言ってしまった言葉だった。

まだ本も読まず、文章も作っていなかった。

それが嫌な物事をとりあえず考えなくてすむ方法なのに、まだ気がついていなかった。

だんだんと追いつめられていって、ある日間違いを犯したのだ。

女にひどいことを言ってしまった。

だけど女も誰かにひどいことを言った。

だからお互い様だ。

今ではもう会うことも、話しをすることもないけれど、たとえ会ったとしても、話しをしたとしても、誰かが女にそのときのことを謝ることはないだろう。

だって誰かは、この世界にはいないのだから。

望まれて生まれてきたわけではないのだから。

それはこの世界にいないのと、いったいどれほどの違いがあるのだろう。

世界に居続けることに、あるいは世界から去ることに、どれだけの違いがあるのだろうか?

答えは明白だった。

そんなものはない。

 

10

気がついたらまた場面が変わっている。

夜の屋上。

その角に誰かが立っている。

一歩踏み出せば、それで終わるというのに、誰かはそこから一歩も動けないでいる。

(怖い怖い怖い怖い……)

誰かは頭の中でただそれだけを呟き続けている。

あるいは声に出していたかもしれない。

聞く者は僕の他に誰もいなかったから。

僕は思う。

こんなふうになるんだったら、あのとき死んでいればよかったのに。

熱さも痛さも感じなくなっていたあのときに。

今では熱さも痛さも誰かの中に戻ってきている。

だから、痛いのが嫌で、痛いのが怖くて、もう死ぬこともできない。

怖さのあまり小便さえ漏らしている。小便が伝った太腿に、風が当たって、冷たく感じる。

それとも、あのときはあのときで死ねなかったのだろうか。

もうあまり思い出さなくなっているけれど、たまにしか夢も見なくなっているけれど、あの頃の誰かは死ぬことを考えなかっただろうか。いや、なんとなく死にたくなかったような気がする。だからこそ、どんなことをされても耐えていたのではないか。だったら誰かが自分で死ぬことなんかはじめからできなかったのだ。臆病者。勇気がなくて浅ましい最低の生物だ。どんなに理性で死を求めていたところで、いざとなったら本能に打ち克つこともできないなんて。

やがて僕は屋上の縁からそのまま一歩後ろに下がって――、そこで目を覚ました。その後僕は逃げるようにして屋上を離れたのだった。

ここがどこなのか、今がいつなのか、自分が誰なのか――、一瞬わからなかった。でもそれは本当に一瞬のことだった。視界の中に映っている白い天井のシーリングライトが、ここがどこで、今がいつで、僕が誰なのかをすぐに教えてくれた。

全身に汗をかいていた。

もう長いこと夢なんか見ていなかったのに、どうして、と思う。たぶんあの手紙が関係しているのだろうと思う。なぜ今なのかは考えてみても思いつけない。

 

11

その手紙の封筒に書かれた差出人の名前は、僕と同じ苗字の、僕の知らない女性のものだった。つまりあの男の親族の名前、すなわち差出人はあの男の母親だった。

一度目を通したきりもう捨ててしまったので、一言一句同じ内容を記すことはできないが、手紙のあらましはこうだった。

男が心臓の病気で去年亡くなったということ、自分も認知症で文章もうまく書けないということ、僕の覚えていない僕との思い出、何もできなかったことへの後悔、最後に、線香をあげにきてほしいといった願い、男も喜ぶだろうといった母親としての想い……。

 

12

ようやく高校を卒業した僕は、すぐに女のもとを離れた。

女に借りた、一人暮らしをするための資金を返済するのに、三年ほどがむしゃらにアルバイトをした。

僅かに残ったお金で、今のマンションに移り住んでからは、ほとんど部屋を出ずに、一日中文章を書いて、それをお金に変えて、どうにか暮らしている。

これで得られる収入は、時給に換算すれば本当に微々たるものなので、たとえアルバイトでも、外に出て働いたほうが、はるかに稼げるのにもかかわらず、それでも僕は、できうる限り、部屋の外に出たくない。

本は図書館で借りられるし、音楽は聞かない。テレビも見ない。お金のかかる趣味はないし、必要最低限の家電があれば、他に何もいらない。とりあえず、飢えずに死ぬまで生きていられたら、それで十分だ。生活はぎりぎりだけれど、今のところそれでなんとかやっていけている。

 

13

男の母親は、どうやって今僕が住んでいるマンションの住所を知ったのだろう? そして、僕のことを何も知らずに、どうしてこんな手紙が書けたのだろう。

僕があの男を殺そうとしていたことも知らずに。

その手紙が届くまで、ずっとそのことだけを支えに生きてきた。男を殺す瞬間の、あらゆる想像と、暗い喜びの中で。僕が、あの男から離れたときの、あの男と同じ歳になったら。

自殺もできず、ただ死ぬまで生きなければならないのならば、その生に本当の喜びなどないのだから。

喜びは悲しみには絶対に勝てない。

どれだけたくさんの喜びがあっても、たったひとつの悲しみが、簡単にそれらを消し去ってしまう。

たとえば面白い本を読んで、しばしその世界に浸って、楽しいと思えたとしても、本を閉じてしまえば、その余韻を感じる間はすでになく、なんだかよくわからない悲しみのようなものが訪れて、それを残らず持ち去ってしまう。

ここでいう悲しみのようなものは、無力感のような気もするし、虚脱感であるかもしれない。だから、それが真実悲しみというものなのか、本当のところはよくわかっていない。けれど僕は、とりあえずそれを、悲しみと呼ぶ。

悲しみが喜びを持ち去った後に、そこには何も残っていない。まるで蝗の大群に襲われた田畑のように。

そして僕は、それを目にした農民のごとく、脱力する。膝から力が抜けていく。

どうせ生きていくしかないのなら、どこで生きても同じだと思った。そこがたとえ安いマンションの一室でも、刑務所の檻の中でも。

バカだった。

自分が責め抜いて殺すはずの男が、そうする前に死ぬ可能性を、どうして考えなかったのだろう。

ここにも想像力の欠如がある。

他人のことばかりは言えない。

 

14

体を起こして、登録しているサイトを開くと、僕の書いたいくつかの記事が承認された、というメッセージが届いていた。

その中のひとつは、2000文字程度のショートストーリーを書くといったタスクで、僕は、なぜかぱっと頭に浮かんだ鶏の話を書いて、依頼主に送信した。じつは指定の2000文字には全然収まらず、文章を削るほうにとても苦労した。

生まれたばかりのその鶏は、養鶏場のブロイラーで、五十五日の後、人間の食料になることが決まっている。周りの養鶏達はその運命を受け入れ、すべてを諦めて、怠惰な日々を送っている。だけどその鶏だけは、周りの養鶏達の、そのような態度に疑問を持つ。せっかく生まれてきたのに、何もせず、ただ漫然と生きることに、どうして彼らは耐えられるのだろうか、と。だからその鶏だけは、日々よい鶏肉になる努力を怠らない。いっぱい餌を食べて、水を飲んで、適度に身体を動かす。たっぷりと休憩する。ばたばたと羽ばたいてはむね肉を鍛え、ちょこちょこと走ってはもも肉を鍛える。特にもも肉には気を遣っている。しかしやりすぎもよくないことをその鶏は知っていて、肉の歯ごたえが悪くならないように、運動後にはたっぷりと休憩をとる。そうしているうちに五十五日はあっという間に過ぎ去っていき、その鶏は解体工場へと運ばれる。覚悟を決めていたはずのその鶏は、そこで突然襲い掛かってきた恐怖に震える。死にたくないと繰り返し喚く。そして解体される。結局その鶏のもも肉は、ある居酒屋に卸されて、風邪を引いたアルバイトに調理され、黒焦げのからあげになる。料理長がそれを業務用の生ごみバケツに捨てる。料理長は風邪を引いたアルバイトを叱らず、優しく労わる。

哀れなガッルスガッルスドメスティクス。

どうして僕は、この鶏に、幸せな結末を用意してあげられなかったのだろう?

養鶏場から脱走して、人間達のいない草原地帯に迷い込み、そこで出会ったゆかいな仲間達と、死ぬまで楽しく過ごさせてやることが、僕にはできたというのに。

 

15

隣の部屋では、二人の男女が、一緒に暮らしている。彼らは兄妹・姉弟かもしれないし、あるいは恋人同士かもしれない。

一人暮らし用のマンションに二人で住んでいることを、管理会社に密告しようとする、醜い僕がいる。

そんなことはできないと、そんなことをする必要はないのだと、すぐに考えを翻す僕がいる。

そして。

こんな空想にふける僕がいる。

じつは二人は同一人物だった。

昼間に出会った、美しくも愛らしい、まるで作り物のようにまっすぐで長い黒髪の女性は、夕方に見かけた男の人の、女装した姿だったのだ。

もしそうであったなら、僕は男性を好きになったことになる。そこに救いはあるのだろうか? ちゃんと異性を好きになれるような神経が、僕にもまだ残されていたという事実に。

 

16

お隣さんと出会ってから、半年が経とうとしている。部屋の外はまだとても暑い。

僕の生活に劇的な変化は見られない。

ただ。

金曜日の午前中には、たまにお隣さんと顔を合わせて、ほんの少しだけささやかな世間話のようなものをするようになった。

僕のこの気持ちが本当に恋なのか、お隣さんは本当に男の人と二人で住んでいるのか、女装趣味の男性なのか、はたまた逆か――、つまりはお隣さんの正体を、今だ確かめられずにいる。

けれど。

いつかわかる日がくればいいと僕は思っている。哀れな鶏に、幸せな結末を与えられるような僕に、なれればいいと思ってる。

(つづく)

※読んでいただきありがとうございました。

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