狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『祭の晩/宮沢賢治』です。
宮沢賢治 さんの『祭の晩』は文字数4100字ほどの短編童話です。お祭りはワクワクするものです。だけど、ただ純粋に楽しむだけでいいのかなあ……、と、改めてお祭りを考えさせられた作品でした。空気獣……、山男……、その正体は? 『祭の晩』の失われし真のタイトルとは?
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
山神を奉じる秋祭りの晩。亮二は十五銭をもらって遊びに出かける。
祭りでは、「空気獣」という見世物が大人気となっていた。亮二も客引きに言われるまま、小屋の中に入ると――真ん中の台の上に、空気獣がねばりついていた。
空気獣は、大きくて平べったい、ふらふらして白い、どこが頭でどこが口かもわからず、こちら側から棒で突くと、引っ込んだ向こう側が膨らむ……、亮二はとても見ていられない。
亮二は、急いで外へ出ようとして、大きな男にぶつかる。古い白縞の単物、変な簑、黄金色の眼、赤い顔の骨ばった、奇妙な男だった。
男が十銭支払うのを見て、続いて亮二も十銭を支払い外へ。亮二は、そこで従兄の達二と出会い、空気獣の正体を知らされる。その間に、男の背中は人混みの中へと見えなくなった。
屋台の並ぶ通りを抜けて、亮二が立ち止まっていると、木の陰で暗い掛茶屋のほうで、なにやら騒ぎが起こっている。
亮二がそこへ行ってみると、先程の大男が、村の若者たちにいじめられていた。様子をうかがってみるに、銭がないのを忘れていた男が、それにもかかわらず団子を食ってしまい、支払いができずといったところ――懸命に謝る男の姿を見て、亮二は助けてやろうと男の傍へ、その足の上に銭を置いてやった。
男は、その銭で団子の支払いをして、薪百把、栗八斗をあとで返すと言い置いて、風のように逃げていった。
「山男だ、山男だ」と辺りは騒然となる。
亮二は早速家に帰って、ことの経緯をお爺さんに話すと、やはりそれは山男だという。山男はごく正直なものだ――そのとき、表で突然大きな音がした。亮二とお爺さんが様子を見に外に出てみると、そこには山のような薪と、一面に転がる栗の実があった。
たかだか団子二串のお礼に、これだけのものを持ってこようとは……、亮二はなんだか泣きたいような気持になった。山男があまりに正直で、かわいそうで――山男に何かいいものをやりたい。今度、着物、夜具、それから団子を持っていってやろうと提案するお爺さんに、亮二はもっともっといいものをやりたいという。
お爺さんは優しく、家の中に入るように、亮二を促した。
亮二は黙って月を眺めた。
山のほうで、風がごうっ――と、鳴っている。
狐人的読書感想
お祭りはエンターテインメント?
さて、いかがでしたでしょうか。
お祭りといえば屋台!
――ということで、十五銭のお小遣いを握りしめて、遊びに出かける亮二の姿にワクワクしてしまうのは、日本人なら当然の感情ではないでしょうか? こうしたお祭りの高揚感は、日本独自の趣のように考えてしまいますが、思えば海外にもお祭りはあるわけで、国を問わず共有できる感情なのかもしれない……、とふと思いました。
お祭りといえば屋台!
――とか威勢よく書いてしまいましたが、本来のお祭りは、神様を「祭る」ことなのですよねえ……、「五穀豊穣」とか、神様を迎え、祈り、感謝を捧げる儀式なわけですが、それを意識したことは少ないように思います。ただのエンターテインメントとしてお祭りを消費している感は否めず、「お祭りといえば屋台!」とか威勢よく書いてしまったことを、ふと反省しました。
『祭の晩』のお祭りも、この傾向が強いように感じました。
エンターテインメントといえば、資本主義社会では金儲けの道具なわけで、「空気獣」の見世物や、山男がいじめられている姿は、本質を忘れられて、形骸化してしまった、現代の「祭」の姿を象徴しているように思えて、考えさせられるところがありました。
お祭りは楽しいもの。それを純粋に楽しむのは決して悪いことではないとも思うのですが、しかしその本質を見失っては、日本人の大切にしてきた精神をも失ってしまうように思い、ただ単純にお祭りに行って、屋台で遊んでいるだけじゃダメだよなあ……、といったようなことをこの作品から学んだように思うのですが、考えすぎ? もっと純粋に童話を楽しむべき?
空気獣、山男の正体は…UMA?
前項のちょっと真面目なお話から一転してしまうのですが、「空気獣」とか「山男」とか……、「ひょっとしてUMAか!?」と思ってしまった、というお話です。
UMAについては、いまや説明の必要はないかもしれませんが、「……馬?」と思われた方がいらっしゃらないとも限らないので、一応。
UMA(Unidentified Mysterious Animal)は「未確認動物」の呼称です。噂などで存在の可能性が示唆されつつも、いまだ確認されていない未知の動物を指していいます。
ネス湖のネッシーやビッグフットなどが有名でしょうか。
あるいはこちらの漫画が有名(?)でしょうか。
(このところよく引き合いに出してるなあ、この作品)
あるいはこちらの漫画はいかがでしょうか?
失礼、これはUMR(うまる)でした。
話が逸れてしまいましたが、空気獣……、山男……、いかにもUMAっぽく感じてしまうのは、はたして僕だけ?
空気獣の正体は、「牛の胃袋に空気をつめたもの」だということが、亮二の従兄の達二によって明かされています(がっかり)。
しかし山男のほうはどうでしょう? アメリカやカナダのロッキー山脈で目撃報告があるといわれるビッグフットのようなUMAである、とはいえないでしょうか? あるいは「ポケモントレーナーのやまおとこ」とはいえないでしょうか? (いえないよ! ――というツッコミがどこからか聞こえてくるわけですが)
さすがにUMAはなさそうですが、もし山男が山の神だったとしたら……、村の若者たちは神様をいじめていたことになって――やはりここにも、お祭りの形骸化する様子が、潜んでいるように感じるのですが、こちらはいかがでしょうか?
『祭の晩』の真のタイトルとは?
『祭の晩』は、宮沢賢治 さんの生前には未発表だった作品のひとつです。そして現存する原稿からは、表紙が失われている可能性があって、そこに、この作品の真のタイトルが記されていたのでは、と考えられています。『祭の晩』というタイトルは、編纂時につけられたものだといいますから、本来、宮沢賢治 さんがつけていたタイトルとは違う可能性があります。
山男は、宮沢賢治 さんの出身地である岩手の伝承「山男」(妖怪? いやUMA? しつこし?)をモチーフにした作品で、ほかに『山男の四月』『紫紺染について』『さるのこしかけ』『種山ヶ原』といった作品にも登場しているらしく、これらのタイトルの傾向から、『祭の晩』の「真のタイトル」を考えてみるのもおもしろいように思いました。
そんなわけで僕も考えてはみたのですが……、やはり「これだ!」となるものは思いつけず、亮二、山男、祭りのキーワードはいずれも捨てがたく、これを全部使うとしたら、『亮二と山男の秋祭り』とでもつけるでしょうか……、シンプルな『祭の晩』のほうがいいような気もします。何か良いタイトルを思いついたらぜひ教えてください!
読書感想まとめ
- エンターテインメントと化した日本のお祭り。神様を「祭る」――その本質を見失わないようにしたいと思いました。
- 空気獣の正体は、牛の胃袋でしたが、山男の正体は……、UMA? (ちなみに、絶滅したとされる類人猿ギガントピテクスの生き残りという説があります)
- 失われた『祭の晩』の真のタイトルとは? 考えてみるとおもしろいです。
狐人的読書メモ
現代の小説、漫画、アニメ、ゲーム……、思えばUMA的な存在が出てこないもののほうが少ないかもしれません。
・『祭の晩/宮沢賢治』の概要
読みやすい短編童話。生前未発表作品。山の神への信仰は、仏教信仰同様に、宮沢賢治 さんにとっては重要なテーマでした。「山男シリーズ(?)」には、ほかに『山男の四月』『紫紺染について』『さるのこしかけ』『種山ヶ原』といった作品があります。要チェック。
以上、『祭の晩/宮沢賢治』の読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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