狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『鳥/横光利一』です。
文字数14000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約42分。
私はQに妻を奪われた。
小説の神様が描くドロドロの三角関係、
……ではありません。
たぶん。
容姿やファッション、持ち物、学歴、お金、
……勝敗にこだわり自己嫌悪。
それがイヤなら現実逃避!?
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
私はQにリカ子を奪われた。しかし元はと言えば、私がQからリカ子を奪ったのだと言えなくもない。とはいえ、私の妻であったリカ子を、Qに奪られたのは事実だった。
鉱物学を専攻する学生だった私とQは、リカ子の家に寄宿していた。ようやく女学校を出ようかという彼女は、よく私とQの学術的な話の間に割って入って、あれこれと質問をした。その質問にいつも適確に答えるのはQだった。
私は常にQに敗北感を感じていた。彼をライバルと思い、夜も寝ずに勉強したが、追いつくどころか差は広がるばかりだった。やがて私はQを尊敬するようになった。私の尊敬の念は、謙遜と献身として表れ、Qはそれを私の美質と捉え、二人は親友となった。
Qはリカ子に惹かれ、リカ子もまたQに惹かれていたはずだ。が、実際にリカ子と結婚したのは私だった。私が思い切ってそのことを話すと、Qはしばらく黙った後、祝い、生活に困れば遠慮なく言ってくれとまで励ましてくれた。私はQに感謝した。私はリカ子と結婚し、地質学協会に就職し、Qは大学院に残った。
ある日、リカ子は「Qのほうが私よりも彼女を愛している」と言い出した。私はそれはそうであったかもしれないと思った。リカ子にQのところへ行くよう勧めた。
リカ子はQと一緒になってからもたびたび私のところを訪れた。Qもそれを勧めてくれるし、友人として好きだから会ってくれと言われてしまえば、私にはそれを拒むことができなかった。
地質学雑誌の論争で、QがAに打ち負かされた。学生時代から、QはAに一度も勝ったことがなかった。私がQに一度も勝てなかったように。リカ子はそれを知ってショックを受けたようだった。
学問の歴史はつぎつぎに現れる新しい天才が負かされていく歴史だ、個人の力の限界は小さい――私はQのため、リカ子にそういうことを話して聞かせた。リカ子がQを軽蔑していると思うと、ますますQが親わしく感じてきたからだった。
その頃からリカ子は私を見直し始めたようだ。いまでもQを愛しているが、前のようではなく、私のほうを愛しているのだと言い出した。今夜は帰って、Qとよく話をし、もし許してもらえるならば、また戻ってこい、私は言った。
私は迷っていた。リカ子を奪り、返し、また奪い……、そんな特権が私にあるのだろうか? が、突然気がつく。彼女を奪ったものこそ負かされたのだ。
私は過去と決別しなければならなかった。そのためには飛行機に乗って、飛び立たなければならないと決意した。翌日、二人は鳥になった。
狐人的読書感想
すごい小説。毎回言っているような気もしますが、さすが小説の神様、横光利一さん。
愛憎というような感情を排して、段落のない文体は『機械』を彷彿とさせます。
親友二人に一人の女、お決まりのドロドロ三角関係が描かれるのかと思いきや、おもに別のことが描かれていて、驚かされてしまいました。
別のことというのは、「勝ちとか負けとか」のことです。
恋愛ものとして読めば、リカ子は「私」のところへ行ったり、Qのところへ行ったり――節操がないというか、とんでもない女性のように思われるのですが、一種の「勝利の象徴」として描かれているのがわかります。
ですが、最終的にリカ子を奪った「私」は、「彼女を奪ったものこそ負かされたのだ」、ということを悟るのです。
これは勝ち負けに拘泥することこそが「負け」だというふうに読み取れるのではないでしょうか?
「勝利の象徴」であるリカ子を持っているということは、勝敗にこだわる心を持っているということであり、それから逃れるには現実から逃避するしかありません。
ラストの「飛行機に乗って鳥になる」決断は、まさにこの現実逃避の表れであるかのように感じました。
「勝ち負けにこだわるなんてバカらしい」とはいえ、人間は些細なことでも勝ち負けにこだわってしまう生き物だと思います。
勉強やスポーツはもちろんですが、容姿やファッション、持ち物、学歴、家柄、お金――挙げていけばキリがないですね。
自分は勝ち負けなんか気にしない、とは思っていても、どこかで、ちょっとしたことで、優越感や敗北感を無意識的に感じてしまうのが、人間という生き物なのではないでしょうか。
僕はそのことに自己嫌悪を覚えることがあります。
優越感や敗北感を感じなくするのは難しく思います。それはほかの喜怒哀楽の感情さえも排することにつながるからです。
しかしながら、優越感や敗北感といった感情をうまく処理しなければ、人間は苦しく、生きづらいような気がします。
とくに敗北感というのはやっかいですよね。いくつか処理方法が考えられますが、それが可能かどうか、つぎにそれでいいのかどうか、という悩みが発生するように思えてきます。
ひとつは、当初の「私」がしたように、一生懸命努力して、敗北感を感じさせる相手を打ち負かすこと。
だけどこれは容易なことでない場合があります。
努力は必ず報われると信じたいところではありますが、現実には目に見えるかたちで表れないこともあり、Qに対したときの「私」の場合もそうでした。
ではつぎにどうするか、たぶん、相手を見ないようにして、自分の人生からシャットアウトしてしまうか、あるいは、自分の心にうまく理由をつけて取り込んでしまうかのいずれかで、「私」の場合は後者を選択しています(無意識下での選択)。
Qを尊敬し、謙遜し献身し、現実とうまく折り合いをつけて生きていく――負けたからって相手を無視するよりも、こちらのほうがよほどポジティブな姿勢のように僕は捉えました。
とはいえ、それで心の整理がつけられるほど、人間簡単なものではありません。やはり心のどこかで、勝ち負けにこだわってしまう自分がいるように思えます。
そうなれば、やっぱり相手を見ないようにするしかない。
現実と折り合いをつけるために、自分の心にうまく理由をつけるのも、あるいは相手を見ないようにするのも、結局のところどちらも現実逃避には変わりないように感じました。
この横光利一さんの『鳥』という小説は、自分の心と現実に折り合いをつけるには、どんな方法を用いるにせよ、それは「現実逃避」でしかありえない、みたいなことが描かれているのかな、というふうに僕は思いました。
ひょっとしたら、ただのドロドロの三角関係を楽しむだけの小説なのかもしれませんが……、いずれにせよおもしろい小説でした。
読書感想まとめ
自分の心と現実に折り合いをつけるのは「現実逃避」のほかにない。
狐人的読書メモ
愛憎という感情が著しく欠落しているが、自意識の葛藤についてはひしひしと伝わってくる。敗北感が快感となるようマゾヒズムも、ひとつの現実逃避には違いない。
勝敗、優越感や敗北感が一概に悪いものともいえない。なぜならそれらが学問やスポーツを発展させてきたのも確かだから。
・『鳥/横光利一』の概要
1930年(昭和5年)2月『改造』にて初出。横光利一の自意識の苦悩と敗北。ドロドロの三角関係かと思いきや、テーマは自意識の葛藤についての折り合いのつけ方は「現実逃避」しかありえない、みたいなことが描かれているような気がした。すごい小説だと思った。
以上、『鳥/横光利一』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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