耳/新美南吉=歌がうまくなるにはお風呂!悪習を改め、よい習慣を。

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狐人的あいさつ

コンにちは。狐人コジン 七十四夏木ナナトシナツキです。

読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?

そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。

耳-新美南吉-イメージ

今回は『耳/新美南吉』です。

文字数7500字ほどの少年小説。
狐人的読書時間は約17分。

友達に耳をイジられていた花市君はついに……。

いやなことは「いやだよ」ときっぱり言おう!

お風呂で歌うのは、いい? 悪い?

古い悪い習慣は改め、新しいよい習慣は
積極的に取り入れたいけど……。

未読の方はこの機会にぜひご一読ください。

狐人的あらすじ

お風呂では鼻歌やハーモニカを吹くのが習慣だったが、お父さんに禁止されてできなくなった。そこで久助君は何かを考えてみることにした。思い浮かんできたのは花市君の耳のことだった。花市君はみんなが触りたがる耳を持っていた。みんなに触られて怒ってもよさそうなのに、花市君は全然怒らない。

ある日、村の男の子が全員集まって、山で戦争ごっこをしていた。いつものように誰かが花市君の耳を触ろうとした。すると花市君は「いやだよ」ときっぱり言った。みんな驚いてしんとしてしまった。花市君は怒っていなかった。しかしその言葉には断固とした響きがあった。

村の少年たちは花市君の立派な態度に感心した。古い悪習を改めるには「いやだよ」ときっぱりはねつけて、新しいよい習慣をはじめるには「よしやろう」ときっぱり言って起ちあがらなければならない。その夜、久助君も古い悪いしきたりを何か改めようとした。しかしそれはむずかしく感じた。

つぎの朝、久助君は寝坊してしまった。集団登校に遅れてしまい、ひとり道を歩いていると、うしろから太一さんの自転車がやってきた。久助君は寝坊したとき、いつも太一さんの自転車に乗せてもらって遅刻を免れていた。今日も太一さんの自転車に乗せてもらおうとして、久助君はひらめいた。

あのきっぱりしたやり方をするならいまだ!

久助君は太一さんの自転車に乗せてもらうのを断ると、学校に向かって走り出した。どうにか学校まで走り着いたとき、久助君はほがらかな気持ちになった。すると同級生が一人近づいてきて「日本がアメリカ・イギリスと戦争をはじめたぞ」と教えてくれた。昭和十六年十二月八日の朝のことだった。

狐人的読書感想

新美南吉さんの「久助君シリーズ」は少年小説。とはいえ、大人が読んでも考えさせられる作品が多く、この『耳』もそんな作品のひとつのように感じています。

ところで、大人の言うことに間違いはないのでしょうか?

久助君がお風呂で鼻歌を歌ったりハーモニカを吹くのを禁止されてしまった件です。

お風呂で歌うのは、いい?悪い?

――と、ふと疑問に思いました。

お父さんいわく「風呂の中でハーモニカを吹いたり、鼻歌を歌ったりすると、家の屋台骨を曲げるようになる」というんですよね。

たしかにお風呂って声や音がよく響きますよね。

だけどそれだけで、家の外側がカエルの腹のように膨れて潰れてしまう、なんてことはないように思えるのですが、昔の家ではそうでもなかったんですかね?

いまでは逆に、お風呂で歌うと歌がうまくなるといったいい効果があります。歌を上手に歌うには音程を上手に取る必要があって、だから自分の歌声が反響してよく聞こえるお風呂で歌うことはいいボイストレーニングになるのだとか。

ただし、お風呂は音が響きやすく、さらに換気扇などから音が漏れやすいので、隣の人に歌を聞かれて恥ずかしいとか、近所迷惑になるといったデメリットもあります。

昔にいわれていたことって、いまはどうなんだろう? ということを調べてみると、意外なことがわかっておもしろいですよね。

とかなんとか、話がだいぶ脱線してしまいましたが、ここから軌道を修正して。

この作品のメインテーマは「『いやだよ』ときっぱり言うこと」。それによって「古い悪習を改めたり、新しいよい習慣を始めよう」ということですよね。

花市君が耳を触られるのを「いやだよ」と言ってきっぱりと拒んだ態度は僕にも立派なものに感じられました。

「『No』と言えない日本人」などといわれるように、なかなかはっきりとものをいわないのが日本人の悪習であり、また美徳であるとも思うのですが、とくに子どもが友だちに対して「いやなことをいやだ」というのは勇気がいる行為ですよね。

花市君の場合の耳とか、じつはコンプレックスである部分を笑われたりからかわれたりしても、我慢して一緒に笑っているという場面は想像しやすいように思いました。

だから、これをずっと我慢していると、そのうち友だちがいやになって、学校にも行きたくなくなって――などということも考えてしまいます。

『耳』の場合のように、友だちも悪気があって花市君の耳を触りたがっていたわけではないケースもあるので、早い段階で自分の気持ちをきっぱりと相手に伝えるのも大切なことだと感じました。

友だちもみんな「いやだよ」と言った花市君の態度を立派だと感じたところはえらいですよね。

いままでは触らせてくれたのに、なんでいきなりそんなこと言うんだよ、と反発を招いてしまってもおかしくないような気がしたのですが、いなかの少年の純朴さのためでしょうか? すばらしいことのように思いました。

悪習を改めるのも新しいよい習慣をはじめるのも、じつはなかなかむずかしいことだという久助君の実感は、僕にもわかります。

会社の業務や学校の生活でも、習慣化されて慣れているものを変えようとなると、どこか反発心を抱いてしまうことがありませんか?

明らかによさそうな習慣に変えよう、といった意見にも、これまで慣れてきた習慣を変えたくないといった意識が働いてしまうんですよね。

(……ひょっとして僕だけ?)

まさに古い悪習として改めたいところです。

花市君の「いやだよ」事件のあった夜、久助君は自分も古い悪いしきたりを改めたいと、何かないかと考えるのですが、いざ考えてみるとふさわしいものを思いつけず――という場面にはとても共感してしまいました。

最近の読書で「不登校」について考えたことがあったのですが、「何がなんでも学校へ行かなければいけない」というような考え方や風潮も、あるいは古い悪い慣習なのかな、というような気がふとしました。

義務教育は親が子供に教育を受けさせる義務であって、子供が学校に行かなくてはならない義務ではないんですよね。

いまの時代は通信教育なんかも充実しているし、学校に行かなくても勉強はできるわけなのですが、のちのち社会に出なければならないことを思えば、やはり「学校には行くべきだ」という風潮がいまだに強いように思います。

人間は社会に参加せずに生きていくことはできず、しかしいまは比較的ひとりでできる仕事もけっこうあるわけで、本人の努力次第ではなんとでもなるのでは、というような気もします。

無理に学校へ行かせて、それで子供がダメになってしまうことを思えば、「義務教育で必ず学校へ行かせる」といった認識は古い悪習として改めていくべきなのかもしれないな、などと、ふと思いました。

ラストのシーン、久助君が「きっぱりしたやり方」を実践し、それをやり遂げほがらかな気分になっているところへ、同級生が開戦を伝えに来るところはむずかしく感じました。

調べてみると、昭和十六年十二月八日は太平洋戦争開戦の日です。

新しいことをはじめるために「よしやろう」ときっぱり言って起ちあがるのは大切なことだと感じますが、それが必ずしもよいことだとは限らないというあたりに皮肉めいたものを感じてしまいます。

新美南吉さんが何を思ってこの件を書いたのか、興味を持ち調べてみても明確にはわかりませんでした。

戦争は悪いこと、反戦的な意味合いであってほしいところですが……、また時間をおいてゆっくりと読み直してみたいところです。

読書感想まとめ

古い悪い習慣は改めよう、新しいよい習慣は積極的に取り入れよう。ただし、悪い習慣とよい習慣の見極めが大切。

狐人的読書メモ

習慣を改めるのもむずかしければ、善悪の判断もまたむずかしく……、世の中むずかしいことだらけである。

・『耳/新美南吉』の概要

1943年(昭和18年)5月、『少国民文学』にて初出。久助君シリーズ。戦時色の強い作品。

以上、『耳/新美南吉』の狐人的な読書メモと感想でした。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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