狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『ひとりすまう/織田作之助』です。
文字数21000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約63分。
独り住まう?
ひとりすまうは独り相撲、織田作之助デビュー作。
21歳、それはまだ自意識過剰なお年頃?
正しいのは美人の彼女か恋敵の男なのか。
筆者がズバッと解決してくれます。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
――彼が二十一歳のときの話を語る。
肺患の療養のために滞在していた南紀白浜温泉の夜更けの海岸、不眠のために宿を抜け出して海を見ていたぼくは、同じように海辺にいる美しい女にふと気づいた。身投げだと勘違いして、僕は走り出した。自分が結核であることも忘れて。
とたんに息が苦しくなり、激しい咳が起こり、ドロッとした血を吐いた。そんなぼくに女も気づいて、「どうかなさいまして?」と気遣われる始末。これが彼女との出会いだった。
心配した彼女が宿まで付き添ってくれるというので、二人並んで道を歩いていた。彼女はぼくの病気に悪いと、黙ってくれているのだけれど、ぼくは何もしゃべれない自分に苛立ちを感じていた。彼女はなぜこんな時間に、あんな場所にいたのだろうか?
急に彼女がぼくの傍をハッとして離れた。と思うと、ぼくらの目の前に逞しい一人の男が立っていた。ピシャリと音がして、その男は彼女の手をとると、二人はそのまま立ち去ってしまった。
数日後には病状が落ち着いたので、ぼくは彼女に会えるかもしれないという期待を胸に、散歩に出かけてみると、なんと偶然にも彼女と再会した。
今度こそ話を聞いてみると、彼女の名は明日子といい、二十六歳で、医科大助教授であった夫を肺病のために亡くしたばかりなのだとか。
あの男は轡川といって、夫と同郷の、当時は私立大学の学生だった。夫は肺病で寝込んでいて、自分がこの調子では家が物騒だということで、轡川に用心棒として寝泊まりするよう頼んだ。そして轡川は、夫の目を盗んで明日子を暴力で辱しめたのだという。
以上の事実を、病気の夫に打ち明けることもできず、以来二人の関係は続いてきたが、ついに夫が亡くなってしまい、明日子は実家へ帰ることに。轡川は結婚してくれと明日子を追ってきたが、彼女にその意思はないらしい。
聞いていて気持ちのよい話ではなかったが、義憤を感じて熱が出るほどだったが、それでもその一方で、ぼくは朗らかな気持ちになっていた。するとまたしても轡川がぼくらの前に現れた。
その日の轡川はひどく低姿勢で愛想がよく、待遇の悪い宿を変えようと思っている話をぼくがすると、それなら自分たちの宿の隣の部屋が空いているからと言って、わざわざ荷運びまで手伝ってくれた。ぼくは彼女への想いを試されているのだと思った。
夕食のとき、轡川は石油を飲めば結核は治るという根も葉もない話をした。明日子はそんな轡川を始終嫌っているような態度だった。ぼくはそれに満足を感じていた。
しかしその夜、隣の部屋からは耳をふさぎたくなるような物音が聞こえてきて――翌朝、一人でぼくを訪ねてきた轡川の、明日子の言っていたことは全部嘘で、真実は自分が誘惑されたのだ、という話を聞いて、ぼくはわけがわからなくなってしまった。
話していると、轡川はいかにも気持ちのいい男だ。轡川の言うように、彼女は浮気な女なのかもしれない。しかしそう思わせようとしていることこそが、轡川の策略なのかもしれない……。
夕方、今度は彼女と二人きりになると、ぼくは衝動的にキスをしてしまった。轡川の言うことが真実なのか、彼女の言うことが真実なのか、ぼくにはますますわからなくなった。
翌日、彼女は船に乗って、一人実家へと帰っていった。轡川は泥酔してポロポロと泣き、その様子はいかにも哀れであった。憎めぬ男だと思った。結局、轡川の言ったことが真実か、明日子の言ったことが正しいのか、二十一歳の当時のぼくには解き難い謎であった。
――彼の話を聞いて、筆者はこう考えた。おそらくどちらも真実を言っていたのだろう。女は恋愛なくしても、喜びを求めて行為に及んでしまうことは充分ありえるし、夫がいる身ではそれを辱められたとでも思わなければやりきれなかったであろう。となれば、彼女自身が無意識だったとしても、男が誘惑されたと思い込むのもまた無理のないことだ。そう筆者が彼に言うと、彼はすかさずつぎのように答えた。
もちろんそれが間違いだとはいえない。だけどそのときのぼくに、そのようなことを見抜く力があったなら、君のそのような解決の素材となったぼくのこの話は、もっと違ったものになっていたはずに違いない。
狐人的読書感想
『ひとりすまう』は織田作之助さんのデビュー作です。
『Wikipedia』だと『雨』のほうがデビュー作ということになっていますが、発表年月を調べてみると、両方とも1938年(昭和13年)、『ひとりすまう』は2月、『雨』は11月なので、前者のほうが発表が早く、やはり『ひとりすまう』がデビュー作となるようです。
『ひとりすまう』って、「独り住まう」ってこと?
一人暮らし小説(引きこもり文学?)なのかと、作中の彼が女の身投げを勘違いしてしまったように、僕も勘違いをしてしまったのですが、「すまう=争う」と書いて「相撲をとる」という意味があるようなので、おそらくは「独り相撲」のことを言っているのだと思います。
「『ひとりすまう』=独り相撲」であれば、内容にもぴったり合いますしね。
(上記、認識違いがありましたら教えてください)
さて、「独り相撲」にぴったり合う内容といいましたが、「狐人的あらすじ」あるいは本文を読まれた方はどのように感じたでしょうか?
「独り相撲」には「周囲の事情や結果を考えず、一人で意気込んでしまうこと。成果のない物事に必死で取り組んでしまうこと」という意味合いがありますが、彼が独り相撲をとってしまったのはどうしてなのでしょうね?
もちろん美しい女性を前にして舞い上がってしまったのですが、それを含めて、自尊心・虚栄心・自惚れなど、「青年の過剰な自意識」がそうさせてしまったように、僕は思いました。
青少年期の過剰な自意識を感じさせる小説は、けっこうあるように思いますが、なんとなくJ・D・サリンジャーさんの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、まずはふと連想しました。
異性のちょっとしたしぐさや親切に、「ひょっとして僕のことが好きなんじゃ……」と思ってしまうというのは、とても共感しやすいことのように感じます。
あるいはこれは、青少年期特有のものではないかもしれない、とも思いますが、青少年期だからこそ感じやすい、というのはありますよね。
「中二病」なども思春期の自意識過剰から発するものですが、成長してからそのことを「黒歴史」として封印してしまうように、のちのち振り返ってみればそれはとても恥ずかしかったことのように感じてしまいます。
そういうことって、思い出すだけでも悶えそうになるから、決して人には話したくないことのように考えるのですが、彼は筆者にそれを話しているんですよね。
親しい友達だから話せるみたいなことなんですかねえ……、またはある年齢に達すればよき思い出として苦笑しながら話せる日がくるということなのでしょうか……。
なかなか想像しがたいことですが、そんな日が早く訪れればいいなあ、などと、僕なんかは考えてしまうのですが、みなさんはいかがですか?
『ひとりすまう』は織田作之助さんのデビュー作だから、というのもあるのでしょうか、のちの作品を思わされるところが多くありました。
たとえば彼が、療養先の温泉地で、一組の男女と知り合いになり、振り回されるといったシチュエーションは『秋深き』という作品にも見られます。
というか、『秋深き』は『ひとりすまう』の別バージョンといえるくらいに、その構成がそっくりです。
しかしながら、言いたいことというか、主要なテーマがたしかに異なっているのはわかるので、ここまで同じシチュエーションで、これほどまでに別のテーマが描けるというのはなんだか凄いなあ、などと感心させられてしまいました。
美しい女性、明日子の匂いを「秋の花、木犀らしい」と彼が感じる場面があるのですが、『秋の暈』という随筆にも「金木犀」が出てきます。
なんというか、デビュー作なので著者の原点がつまった小説ということはいえるのかもしれませんが、こういったシチュエーションやあるいは「石油を飲めば結核が治る」というような民間療法、秋という季節や木犀という花に、織田作之助さんは深い関心を抱いていたのかなあ、などと想像させられてしまました。
自意識過剰な彼の体験も、じつは織田作之助さん自身の体験だったかもしれませんよね。
作品と作者とは切り離して読むべきであって、作品から作者を想像するというのは、あるいは邪道な読み方だと言われてしまうかもしれませんが、こういった読み方も、一つ読書の楽しみ方なんじゃないかなあ、などと単純な僕は単純に感じていたりします。
オチの部分は思わずハッとさせられてしまいました。
女も男も、そして彼自身も(ひょっとしたら筆者も)、自分を納得させる都合のいい理由をつけて、みんなそれを信じて疑わず、だから互いの言うことに矛盾が生じてしまう、というのは日常の中でもよくあることのような気がしました。
思えば人との諍いなどは、主観による思い込みがその原因になっていることがほとんどなのではないでしょうか。
ニュースなどを見ていても、明らかに嘘をついているな、と感じさせられることも多いですが、ふと「この人は本当にそう信じて言っているのではなかろうか」などと考えさせられるときもあって、「悪魔の証明」などとはよくも言ったものですが、他人の思いなどは容易に窺い知ることができず、なんとなくもやもやしたままうやむやになってしまうんですよね。
明らかに大多数が「それは間違っている」と判断したとしても、本人は「正しいことだ」と思い込んでいて、それを信じていて、ならば頑なにそれを信じ切っているその人を罰することが本当に正しいことなのか、歴史を鑑みればその立場は逆転することだってありえるのだし……、正しいとはなんなのか、みたいなことを考えてしまうのですが、いつも答えは出ないんですよねえ。
――そんなことをつらつらと考えてしまうのが、青少年期特有の自意識過剰なのかなあ、というのが今回のオチ。
読書感想まとめ
青少年期の過剰な自意識。
人は自分を納得させる都合のいい理由をつけたがる生き物。
狐人的読書メモ
自分では冷静に判断できないことがらでも、第三者ならば冷静に判断できるということはあるのだと思う。その意味で、誰かに相談することは必要なのだと思う。相談できる誰かのいることの大切さを思う。
人は自分を納得させる都合のいい理由をつけたがる生き物であるがゆえに、悪意などでない、純粋な錯誤からくる諍いや争いが生じてしまい、それは小さなケンカから大きな戦争までをも引き起こす。
思い込むのはよくないことだ。
・『ひとりすまう/織田作之助』の概要
1938年(昭和13年)2月、『海風』(第三号)にて初出。織田作之助のデビュー作。構成が秀逸。
以上、『ひとりすまう/織田作之助』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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