狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は
『タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった/宮沢賢治』
文字数5000字ほどの童話。
狐人的読書時間は約15分。
ホロタイタネリ、犬神……、
どこかジブリ作品を彷彿とさせるように思ったのは僕だけ?
タネリは男の子? 女の子?
おいらという女子(オイラー?)いる?
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
ホロタイタネリは、小屋の出口のところで、でまかせのうたを歌いながら、冬中かかって凍らせておいた藤蔓を叩いていた。お母さんは、細かい繊維になった藤蔓で、みんなの着物を織るのだ。
しかしタネリは、もう作業をやめてしまった。むこうに見える初春の野原や丘が、あまりに明るく輝いていたから。ゆらゆら立ち上る陽炎に誘われて、タネリは叩いた蔓を一束持って、細かくするため口で噛みながら、小屋の前を飛び出して行った。
タネリは子鹿のように走った。ごろごろしたくなる黄色い枯れ草の上を、青空の果てを目指して。小屋が兎ほどに見える頃、むこうの丘に四本の柏の木を見つけて、せっかく柔らかに噛んだ藤蔓をぷっと吐き出して、また新たなひとつまみを口に含んで、タネリはそちらへ歩いて行った。
また柔らかになりかけた藤蔓を吐き出すと、「遊びに来たから起きてくれ」と、タネリは柏の木に話しかけた。が、柏の木はまだ眠っているようで、タネリの呼びかけに答えなかった。タネリはさびしくなった。来たしるしに草穂の結び目を四つこしらえると、また藤蔓を少し口に入れて、歩き出した。
丘の後ろの小さな湿地には、牛の舌の花が咲いていた。タネリは藤蔓を吐き出して、ひとつひとつに舌を出して挨拶をした。しかし空はますます青く、辺りはしぃんとなるばかり。タネリはたまらなくなって「おーい、誰か」と呼びかけた。すると蟇蛙が這って出てきた。タネリは怖くなって逃げ出した。
しばらく走ると四本の栗の木が立っていた。その一本の梢には、黄金色をした、宿り木の立派なまりがついていた。タネリは宿り木に何か言おうとしたが、息が切れて話せなかった。藤蔓をひとつまみ噛んで吐き出すと、どうにか喋れるようになった。タネリが脅かすような唄を歌うと、宿り木はべそをかいたようだったので、タネリは笑ったが、その笑い声が消えてしまうとしょんぼりしてしまった。また藤蔓を噛みはじめた。
そのとき、一羽のは鴇が飛び立つのが見えた。タネリは藤蔓を吐いて高く叫びながら、鳥の姿を追った。鳥は暗い森の中に落ちた。タネリは立ち止まった。「遊んでおくれ」と声をかけると、「うるさい。ひとりで遊べ」と、たしかにさっきの鳥ではない、違ったものの返事が返ってくる。タネリは藤蔓をひとつまみ、その場を離れて、もう一度森を振り返って見ると、いつの間にか、森の前には犬神がいた。タネリは一目散に逃げ出した。
夕方、タネリが小屋へ帰ると、「せっかく噛んだ藤蔓をなくしてくるものがあるか」と、お母さんが少し怒って言った。タネリが「けれどおいら、一日噛んでいたようだったよ」。それを聞いて、「それならいい」と、お母さんはタネリの顔つきを見て、安心したように言った。
狐人的読書感想
『タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった』、タイトルがとにかく長いですね。そしてとにかく不思議なお話でした。
以前、『オツベルと象』の読書感想を書いたときに、あの宮崎駿監督がその作品に影響を受けて、『風の谷のナウシカ』や『もののけ姫』をつくった、というお話があることを紹介したのですが、ホロタイタネリ、犬神など――この童話もどこかジブリの雰囲気を感じられる作品だったように、僕には思えました。
『なめとこ山の熊』は『ユリ熊嵐』のモチーフともいわれていますし、現代でも多くのクリエイターに愛されている、宮沢賢治さんの影響力の大きさを実感するところです。
この作品を一言で言うなら「自然と戯れる少年の話」ということになるのでしょうが、どこか郷愁を思わせるような不思議な魅力があります。
まずはホロタイタネリとは何者なのか?
――というところが気になったのですが、ホロタイタネリの「ホロタイ」はアイヌ語で岩手県にある「原台山」を指す言葉だそうで、「ホロ(:Horo)=大いなる、親なる」、「タイ(:Tai)=森」という意味があるらしく、この「ホロタイ(大いなる森―山―)」が転訛して「ハラタイ」となったのだそうです。
なのでこれは、ホロタイに住むタネリという少年のお話、だと捉えるのが妥当のように思ったのですが、「少年」は「年若い人」を指す言葉で、広義の意味では「少女」をも含める言葉であって、だからというわけではないのですが、タネリは「女の子」かもしれない、という読み方もあっておもしろいです。
根拠としては、「衣類をつくる作業は女の子の仕事だから」ということらしいのですが、まあたしかに言われてみれば、という気がしなくもありませんね。
とはいえ、一人称が「おいら」だったこと考えると、やっぱり男の子なんじゃなかろうか、と僕などは想像するわけなのですが、もちろん一人称が「おいら」の女子がいないわけではないとは思うので(オイラー?)、これも明確には言えないところですよね(しかしこのあたり、想像する楽しさがあります)。
タネリを男の子として捉えるならば、やはりそれは宮沢賢治さん自身が投影された姿だと見るのは、説得力があるように僕には感じられました。
宮沢賢治さんは、小さい頃のお手伝い、長じてからは仕事が、なかなか長続きしなかったらしく、お父さんによく怒られていたそうです。タネリと同じように「自然やうたうこと」に強く惹きつけられていた点も共通していますよね。
これをコンプレックスとまで言ってしまっていいのか、ちょっと迷うところですが、四本の栗の木のところで、宿り木を脅かすような唄を歌ったところなどは、そういった鬱屈が表れているのかなあ、という気がしました。
鴇を見つけて追いかけて、暗い森でその姿を見失い、さきほどの鳥ではない何かと会話をして怯え、離れた場所から見た犬神は、不気味な印象を与えます。
……そういえば、フクロウなどの鳥類には「ペリット」という未消化物を吐き出す習性があって、タネリが藤蔓を噛んでは吐き出す行為に通じるなあ、と思ったのですが、何か意味があるのかまでは考えつきませんでした。偶然の一致か、あるいは知っていての必然の一致か、であったとしてもとくに意味を含ませたいわけではなかったのか……、もうちょっと考えてみたいところです。
一説によると、このあたりの不気味さは、妹さんを亡くされて、その姿を追い求める宮沢賢治さんの心情が反映されている、といった捉え方もあるそうです。妹がいなくなってしまい、ひとりで遊ばなくてはいけなくなってしまった兄の寂しさが表現された作品のように、言われてみれば読めなくはないと思いました。
あとはラストの、結局は仕事を無駄にしてしまったタネリに対する、お母さんの態度が印象的でした。お母さんのやさしさや温かさが感じられるシーンになっていますよね。
梶井基次郎さんの作品などでも感じられることなのですが、やはり人間の愛情の中でも「母の愛」というのは別格なもので、子供にとっては唯一無二のものなのではないかと考えます。
自分がダメな子でも、いつもやさしく温かく見守っていてくれるお母さんというのは、やっぱり子供にとって唯一無二の救いだという気がするのです。宮沢賢治さんもそんなふうに感じていたのでしょうか? ちょっと興味深く思ったところでした。
唯一無二の救いであるはずなのに、当たり前のことになりすぎていて、普段なかなか実感できないのが「母の愛」という気がします。たまにこのような作品を読んで、「母の愛」を実感して、母に感謝の気持ちを示せればよいのですが、それも気恥ずかしいような気がして、なかなか行動に移せません。
そのことを後悔しないようにしたいものですが、はたして……。
読書感想まとめ
ジブリの雰囲気を感じる「少年が自然と戯れる」お話。
狐人的読書メモ
冒頭、ホロタイタネリがでまかせのうたを歌っているが、「青・赤・白・黒」という色はそれぞれ「東・南・西・北」に対応しているらしく、これは陰陽五行説の考え方という点に興味を覚えた。
・『タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった/宮沢賢治』の概要
初出不明。生前未発表作。いくつかのプロトタイプ(『サガレンの八月』、『若い木霊』)が存在する。じつは作中、母親の搗いているこならの実は、よほどのことがないと食べない食物であり、これは飢饉時の母子の一日を描いた作品とも見られている。
以上、『タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった/宮沢賢治』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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