ある崖上の感情/梶井基次郎=思考がもつれてきたらもう寝るしかないよね。

狐人的あいさつ

コンにちは。狐人コジン 七十四夏木ナナトシナツキです。

読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?

そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。

ある崖上の感情-梶井基次郎-イメージ

今回は『ある崖上の感情/梶井基次郎』です。

文字数11000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約39分。

生島と石田。
あるカフェで二人の青年が話をしていた。
生島はある興味を持って、崖上から一つの窓を見ているという。
それはあまり人には言えない欲望であった。

ドッペルゲンガー小説。プロージット!(?)

未読の方はこの機会にぜひご一読ください。

狐人的あらすじ

ある蒸し暑い夏のよい、生島と石田、とあるカフェで二人の青年が話をしていた。二人はその日たまたま知り合った。狭い店内で、退屈しのぎに話をしていた。

生島はビールを飲みながら語る。

彼は崖下の家に間借りしていて、その崖の上からある興味を持って、一つの窓を見ているという。それはあまり人には言えない欲望である。

実際にそんなものを見たことはない。しかしそのときもたらされる恍惚感こそ彼にとってのすべてであった。

石田はある部分では共感を覚えながらも、淡々と生島の話を聞いていた。

その夜遅く、生島は崖下の家へ帰ってきた。そして、この家の家主である「小母おばさん」との関係を思い憂鬱になった。

彼らは男女の関係を続けていた。

しかしそこにはなんの愛情もなかった。

生島は部屋に戻り、あの窓のことを考えた。そして一組の男女の姿態を想像した。そこにはやはり恍惚とした陶酔がある。

そのときふと、ある空想が湧き起こってくる。

もしも自分たちの行為中にこの部屋の窓を開け放しておいたら……、あるいは無感動な自分たちの行為の中にも、刺激的な陶酔が訪れるのではないだろうか――。

そして石田のことを思い出す。自分が地図まで書いて熱心に誘っても、石田は誘いに乗らなかった。

石田に対する生島の思いは純粋な好意であるはずだった。だがひょっとしたら、自分は無意識のうちにあの男を我が欲望の傀儡かいらいとして利用するつもりでいたのかもしれない……。

生島は頭を振るようにして眠る準備にとりかかった。

石田はある晩、生島から聞いた崖のほうへ散歩に出かけた。そこから見る町の景色は、彼に旅情らしいものを思わせた。それは彼の田舎にある風景とリンクしていた。

石田は、あるいはそうかもしれないと、生島の言った人には言えない欲望を持って窓を見ることを思った。

しかしいま、目の前にその窓が開いていたとしても、自分は「欲望」よりも「あわれ」といった感情を、そのなかに見出すだろう。一応探しても、そんな窓はどこにもなかった。

石田はしばらくしてから町の方へ歩き始めた。

今晩も来ている。生島は崖下の部屋から、崖路の闇に、その人影を眺めていた。生島は、その人影が石田であることを思い、自分の心の企みを振り返って戦慄を感じた。あれは俺の空想が立たせた、俺の二重人格とでもいうべきものに違いない……。

またある晩のこと、石田はもう幾度目か、崖の上に立って下の町を眺めていた。彼がある窓を見たとき、ふいにひとつの予感に襲われた。それは彼自身が密かに欲していた情景だった。かれの心は乱された。それは人間の喜びや悲しみを超越した、厳粛な感情だった。

「彼らは知らない。病院の窓の人びとは、崖下の窓を。崖下の窓の人びとは、病院の窓を。そして崖の上にこんな感情のあることを――」

狐人的読書感想

ある崖上の感情-梶井基次郎-狐人的読書感想-イメージ

『ある崖上の感情』とは、二人の青年、生島と石田、彼らが見る崖上からの風景(瞰下景かんかけい、見下ろす町の家の窓、あるいは建物の窓の情景)を通じて感じる、それぞれの感情のことを指したタイトルですね。

生島の抱いた感情は人間の欲望、無意識の打算。

石田のものは驚きにも似たある「意力のある無常感」(ある種の悟りか?)。

大きくくくれば「ネガティブな感情」と「ポジティブな感情」に分けることができるように思い、ひとつの情景を通して、二人の人物がそれぞれに違った感情(そしてどこかで通じるところのあるような感情)を抱くという、この二者対比の構図がとても秀逸なものに感じました。

とくに僕は生島の方の感情に共感を覚えました(共感を覚えるのがやはり「ネガティブな感情」という……、とはいえ「あまり人には言えない欲望」のところではない、ということだけは付記しておきたい、一応、ね?)。

石田のものも、現象としてまた観念として、わかるようには思うのですが、実感できるとまではちょっと言いにくかったです(おそらくこのような一種の「悟り体験」みたいな、驚愕をともなう直感体験みたいなものの経験が少ない、あるいはないからだと思うのですが)。それだけに、梶井基次郎さんの感覚の鋭さには毎回驚かされてしまうのですが。

ともあれ、僕が共感を覚えた(覚えてしまった)生島の独白を以下に引用します(ちょっと長めですが)。

「俺ははじめあの男に対する好意に溢れていた。それで窓の話などを持ち出して話し合う気になったのだ。それだのに今自分にあの男を自分の欲望の傀儡かいらいにしようと思っていたような気がしてならないのは何故だろう。自分は自分の愛するものは他人も愛するにちがいないという好意に満ちた考えで話をしていたと思っていた。しかしその少し強制がましい調子のなかには、自分の持っている欲望を、言わば相手の身体にこすりつけて、自分と同じような人間を製造しようとしていたようなところが不知不識しらずしらずにあったらしい気がする。そして今自分の待っていたものは、そんな欲望に刺戟されて崖路へあがって来るあの男であり、自分の空想していたことは自分達の醜い現実の窓を開けて崖上の路へさらすことだったのだ。俺の秘密な心のなかだけの空想が俺自身には関係なく、ひとりでの意志でちゃく々と計画を進めてゆくというような、いったいそんなことがあり得ることだろうか。それともこんな反省すらもちゃんと予定の仕組で、今もしあの男の影があすこへあらわれたら、さあいよいよと舌を出すつもりにしていたのではなかろうか……」

これをちょっと自分なりに言い換えてみますと、

「気の合う友達だと思った。だから自分の好きな趣味をおすすめした。それは『自分の好きなものは友達も好きになってくれるに違いない』という純粋な好意であるはずだった。しかしそれは、あるいはただの押しつけだったのかもしれない」

――といった感じなのですが、どうでしょうかね?

あるいは他人のため、自分は好意で行っていたつもりでも、突き詰めて考えてみるとそれは自分のためでしかなかった、というところは、どこか身につまされる思いがしました。

自分の行動のすべてが打算に基づいたものなのではないだろうか?

これは非常に考えさせられる疑問です。

自分のちょっとした発言ひとつとってみても、たとえば慰めや励ましの言葉を言うのは相手のことを思ってのことではなくて、自分がいい人間だと思われたいから、ひとに好かれたいから言っているのではなかろうか、みたいな。

そんなふうに思ってしまうと、100%誰かのためを思ってした言動なんて、これまでの人生のなかで一度もなかったのではないだろうか、などと考えてしまい、ちょっと暗い気持ちになってきます。

自分自身のことばかりではなくて、人間全体として捉えてみて、たとえば親が子に示す愛情は、生物学的にいうならば「ただ自己保存の本能に基づくだけのもの」みたいな。恋や愛といったものもすべてこれで説明できるようにも思えてきます。

ただ、このようなことを考えもせずに、愛情を示したり親切をしたりできるひと(あるいは咄嗟の状況でそれをする場合)もあると思うわけで、世の中にある愛情や親切がすべて打算によるものばかりだとはいえないのではなかろうか、なんてことも考えたりします。

「だから、打算ということを意識せずに愛情や親切を示せる人間であるためには、まず打算ということを意識しない必要があって、であればこの読書はそれを意識させられてしまうことになってしまい、しかし明確に意識していないだけで、人間の無意識下には必ず打算というものが潜んでいるのだと思えば、それを意識してなるべく打算の心を戒めるように生きることこそよい生き方のようにも考え、では心の戒めを意識できる点においてこの読書はやはり必要なものであるという結論が出せるのかといえば、だけどやっぱり真に打算のないひとたちがいたらこの読書は害となるのかもしれないとも思えてきて……」

生島はだんだんもつれて来る頭を振るようにして電燈をともし、寝床を延べにかかった。

――という部分にすごく共感してしまったという、「どこに共感してんだよ!?」といった感想が今回のオチなのでした。

読書感想まとめ

ある崖上の感情-梶井基次郎-読書感想まとめ-イメージ

思考がもつれてきたらもう寝るしかないよね(?)。

狐人的読書メモ

最近の読書ではよく「ドッペルゲンガー小説」に出合う(江戸川乱歩さんの『双生児』、泉鏡花さんの『星あかり』、梶井基次郎さんの『Kの昇天』)。創作における興味深いテーマのひとつである。

「考えすぎると人間駄目になっていく」という辺りは中島敦さんの『悟浄出世』を彷彿とさせられた。

・『ある崖上の感情/梶井基次郎』の概要

1928年(昭和3年)、同人誌『文藝都市』にて初出。窓の中の情景というテーマは、ボードレールさんの『パリの憂鬱』(「窓」、「エピローグ」)から着想を得ているものなのだとか。梶井基次郎さんの愛読書のひとつ。

・今回の読書で気になった言葉たち

『ソロモンの十字架』、『ドッペルゲンガー』、『二重人格』、『プロジット』(プロージット!―乾杯、おめでとうの意、ドイツ語起源―)、『僕は一度こんな小説を読んだことがある』(島崎藤村さんの短編小説『赤い窓』、あるいは梶井基次郎さんが当時読んだとされる雑誌の挿話)、『石田にはそれらの部屋を区切っている壁というものがはかなく悲しく見えた』(『壁』もまた創作におけるテーマのひとつとして興味深い、村上春樹さんの小説とか)

以上、『ある崖上の感情/梶井基次郎』の狐人的な読書メモと感想でした。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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