狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『玄鶴山房/芥川龍之介』です。
文字数13000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約43分。
寝たきりの老夫婦と娘家族、
住み込みのお手伝いさんと看護師さん。
そんな玄鶴山房に、ある日主人の妾母子がやってきて……、
玄鶴は肉体的精神的苦痛に喘ぐ。
昼ドラのようなドロドロです。
暗い気持ちになりたくない方要注意。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
「玄鶴山房」は静かでこぢんまりとした家だった。この家の主人は堀越玄鶴という多少は名の知られた画家だった。
重吉は玄鶴の娘婿だ。銀行に勤め、帰りは遅い。家の敷地に入ると不快な臭気を感じる。それは、肺結核のため離れの床に伏す玄鶴の息の臭いだったが、家の外にそんな臭いの出るはずはない。玄鶴の妻お鳥もまた寝たきりとなっている。
玄鶴の娘、重吉の妻お鈴は、女中のお松とともに、家の切り盛りに忙しい。玄鶴の孫にあたる武夫はやんちゃ盛りの年頃。甲野は玄鶴の世話をする住み込みの看護師で、暗い過去を持ち、そのため他人の不幸に蜜の味を覚えてしまう傍観者である。
そんな一家に、とある母子が加わることになった。母の名はお芳、息子の名は文太郎という。お芳はかつての女中であり、玄鶴の妾となった女だ。文太郎は玄鶴の子である。母子は手切れ金と月々の養育費の約束を得て、田舎に帰る前の一週間ほどを玄鶴の家で暮らすことになった。
この母子が玄鶴山房に住み込み始めてから、家の空気は険悪になるばかりだった。武夫は気の弱い文太郎をいじめる。お鈴とお松は、お芳を軽蔑の目で見ている。お鳥は表に出さないよう努めてはいても、嫉妬のなかろうはずがない。甲野はこの家庭的悲劇をあおって、楽しんでいる。
玄鶴は日に日に衰弱していた。肉体的精神的苦痛はいや増すばかりである。あさましい己の人生を振り返っては苦しみ、覚めたあと惨めな気持ちになる一時の明るい夢さえ恐れた。いよいよ耐え切れず、不自由な体で首をくくろうとしたとき、その様子を孫の武夫に見られて囃された。
一週間後、玄鶴は絶望を抱えたまま、肺結核のために絶命する。火葬ののち、帰りの馬車で重吉と大学生の彼の従弟が短い会話を交わす。青年は、門のところで佇んだまま、こちらに目礼したお芳に思いを馳せて、お芳母子の漁師町で暮らすこれからの苦労を想像しながら、英訳版リープクネヒトの追憶録を読み始めた。
狐人的読書感想
ドロドロしています。まるで昼ドラのように。
暗い気持ちになること請け合いなので、読む際にはくれぐれもご注意ください。
とはいえ甲野さんのように『他人の苦痛を享楽する病的な興味』を持った方には文句なくおすすめです(はたしてここまでの人がいるのかどうかはさておくにして)。
あと狐人的に東野圭吾さんの『白夜行』、『幻夜』が好きな方にもおすすめします(毒は『白夜行』、『幻夜』のほうがはるかに強いですが、なんとなくこれらの作品に登場する悪女を思い起こしました)。
さて、甲野さんの『他人の苦痛を享楽する病的な興味』、言い換えるなら『他人の不幸は蜜の味』という感情についてですが(ここに興味を持ってしまう僕はひょっとして性格が――いわずもがな)。
正直、まったくわからないものではありませんでした。
こんなことを書いてしまうと「他人の不幸を喜ぶなんて不謹慎だ」と非難されてしまうかもしれませんが。
しかしながら、たとえば知り合いが彼氏と別れたり、ひとの悪いところや自分よりも劣っているところを探してしまったり、ひとよりもよく見られたい、いい暮らしがしたい、幸せになりたい――そのために他人のちょっとした不幸を喜んだり、安心してしまったり……。
このような感情は妬みや羨みからくる自然なもののように思うのです。もちろん、これを人前で表立って平気で口にしてしまうのはよろしくないことだと思いますが。しかし湧き上がってくるこうした感情を完全に否定することはできません。
こういうことって、なかなか友達同士でも話しにくいような気がします。なのでひとと意見を交わす機会がなくて、ひょっとしてこんなことを考えてしまう自分は、絶望的に性格が悪いのかもしれないとか思ってしまいます(どうなんでしょうね?)。
調べてみると、このような心の働きは脳科学的には証明されているそうです(MRI装置を用いてシチュエーションに応じた脳内血中酸素濃度を計測する方法があるらしい)。
もしも『他人の不幸は蜜の味』という感情が人間として当然のものなのだとしたら、その感情をよくないもの(人の持つ弱さ)と捉えて常に自戒して、妬んだり羨んだりするよりも、共感して一緒に悲しめるようなひとになりたいと思いましたが、あるいは現実はなかなか厳しいようにも感じてしまいます(とくに自分が苦しかったり悲しかったりするとき、はたしてそんなことができるようになれるのか否か。――自信ない)。
だけど本当に、愚直なまでにひとの気持ちに共感して一緒に喜んだり悲しんだりできるひとも世の中にはいるような気がして、はたしてこういうひとたちと自分とは生来的に違うものなのだろうか、とか考えてしまったりもします。
世の中には二種類の人種がいる。性善説的人間と性悪説的人間の二種類だ。みたいな?
てか、思いもよらず甲野さんの話が長くなってしまいましたが。『他人の苦痛を享楽する病的な興味』を持った甲野さんが、短編小説にしては多い登場人物たちの中で、僕の印象にもっとも残ったひとでした。
それから印象に残ったのはこの小説が「家庭的悲劇」を描いている作品だということ。「悲劇」といってもそれは「劇的な」ものではなくゆるやかなもので、この「ゆるやかな」という言葉が「家庭的悲劇」を表すのにとても合っているように思いました。
家庭は最小の社会である――という言い方ができるでしょうが、社会や家庭といったものはある日突然壊れるのではなくて、ゆるやかな下り坂を転げ落ちていくように、だんだんと進行して崩壊するもの。
「玄鶴山房」の一家にあっても、決定的な出来事(離婚などの具体的な家族崩壊)は起こっていませんが、妾母子がやってきたのを機に、主人は病と家庭内不和に苦しみ、主人の妻は嫉妬をうちに抱え、娘夫婦は蔑みや憐みや困惑など感情のやり場に戸惑い、子供たちはいじめていじめられて……、しかし人は社会(とくに家庭という社会)からなかなか逃れることはできません。
多かれ少なかれ(程度の大なり小なりあれ)、こういったことはどこの家庭にもあることで、誰しもが何かを感じるところではないでしょうか。仮に「うちの家族には何の問題もなくとても仲良し」という方がいらっしゃれば、それは本当に幸せなことだと思ってしまいます(本心から。「他人の不幸は蜜の味」を願ったりしません!)。
それから最後にもうひとつだけ。印象に残ったシーンとして、玄鶴が首をくくろうとしたとき、その様子を囃しながら茶の間に走っていった孫、武夫の姿があります。
「やあ、お爺さんがあんなことをしていらあ。」
武夫はこう囃しながら、一散に茶の間へ走って行った。
肺結核と家庭不和で弱り切った老人の、絶望的で悲壮な覚悟も、子供からしたらいかにも滑稽に見えたのでしょうか。子供の残酷さというか、老人の憐れさというか……(まあ、玄鶴の自業自得、因果応報といった面があるにはあるのですが)。
読書感想まとめ
他人の苦痛を享楽する病的な興味を持った方におすすめします。
狐人的読書メモ
最後のリープクネヒトの追憶録の件にちょっとひっかかるものを覚えた。何か深い意味があるような気がする。ほとんど無関係な人物をいきなり登場させての、ものごとの見方の客観化、相対化の手法は興味深く思った。『寝るが極楽。寝るが極楽………』、まさしくそのとおり。
・『玄鶴山房/芥川龍之介』の概要
1927年(昭和2年)『中央公論』(1月号、2月号)にて発表。ドロドロ。おすすめ注意。
・他人の不幸は蜜の味
英語で「The misery of others is as sweet as honey.」
以上、『玄鶴山房/芥川龍之介』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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