狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『悟浄出世/中島敦』です。
文字数23000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約74分。
中島敦版西遊記(わが西遊記)。
三蔵法師の弟子となる前、悟りを求めて旅をした沙悟浄。
彼が見出した悟りの境地とは?
狐人は悟浄に深く共感しました。
思考派におすすめ。
凄い、おもしろい小説です。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
玄奘三蔵法師の弟子となる前の沙悟浄。彼は悟りを求めて流沙河を遍歴する。流沙河は彼自身の棲み処であり、またそこには一万三千の妖怪が棲んでいる。その中には「賢者」らしき妖怪も数多く存在する。悟浄は彼らのもとを訪れてはその教えを乞う。
黒卵道人、沙虹隠士、坐忘先生、蚯髭鮎子、無腸公子、蒲衣子、斑衣厥婆、女偊氏――
長い遍歴の末に、悟浄が開いた悟りの境地とは?
狐人的読書感想
凄い小説、おもしろい小説でした。
まずは悟浄のパーソナリティに深い共感を覚えてしまいました。
独言悟浄って(笑)。
作中では病気とされていますが、(哲学的に)ものごとを深く考え過ぎてしまう、たしかに精神衰弱ぎみの沙悟浄(同じく中島敦さんの『セトナ皇子』などを思わされるところがあります)。
独りの時間が多いと独り言が増えるというのはよく耳にすることですが、ストレスや精神疾患(うつ病など)の表れという話もあって、深い共感を覚えて「(笑)」している僕が「(笑)」なのかもしれませんが、それはともかく(?)。
西遊記といえば、日本ではこれを元にした様々な創作がなされていて、中島敦さんの『悟浄出世』(『わが西遊記』)もそのうちの一つだといえます。
狐人的にはそれだけでも興味をそそられる小説でした(調べていて『フェイトグランドオーダー』に玄奘三蔵法師が出ていてちょっと笑いましたが。三蔵法師を女性だと思ってる人が結構いるって本当? おもしろそうなゲームです)。
細田守監督の『バケモノの子』に『悟浄出世』の一節が取り上げられている、というのも興味深い部分でした(以下引用、映画のエンドクレジットにも参考文献として挙げられているそうです)。
生きておる智慧が、そんな文字などという死物で書留められるわけがない。(絵になら、まだしも画けようが。)
これは『煙をその形のままに手で執らえようとするにも似た愚かさである』と妖怪たちの間では信じられている事柄とのことですが、僕も感銘を受けた部分でした(とはいえ、このようにいまも文字でものを書いている以上、共感できるとまでは言えませんでしたが、一部の真理はついているように感じました)。
上の引用もそうですが、『悟浄出世』は悟浄が悟りを求める話だけに、出会った「賢者」たる妖怪たちの言うことがいちいち哲学的で小難しく感じるところもあるのですが、その多くに何かしら心に響くものがあって、それをおもしろく感じました。
以下、いくつか引用しながらコメントを足すかたちで書き綴っていきたいと思います。
なぜ、妖怪は妖怪であって、人間でないか? 彼らは、自己の属性の一つだけを、極度に、他との均衡を絶して、醜いまでに、非人間的なまでに、発達させた不具者だからである。あるものは極度に貪食で、したがって口と腹がむやみに大きく、あるものは極度に淫蕩で、したがってそれに使用される器官が著しく発達し、あるものは極度に純潔で、したがって頭部を除くすべての部分がすっかり退化しきっていた。彼らはいずれも自己の性向、世界観に絶対に固執していて、他との討論の結果、より高い結論に達するなどということを知らなかった。他人の考えの筋道を辿るにはあまりに自己の特徴が著しく伸長しすぎていたからである。それゆえ、流沙河の水底では、何百かの世界観や形而上学が、けっして他と融和することなく、あるものは穏やかな絶望の歓喜をもって、あるものは底抜けの明るさをもって、あるものは願望はあれど希望なき溜息をもって、揺動く無数の藻草のようにゆらゆらとたゆとうておった。
――長いですが。しかし何度読み返してみても削るべき部分がなかったのです。ここは妖怪のことをいっているようでいてじつは人間のことをいっているように感じました。つまり人間がバケモノになる条件みたいなものを。欲望や欺瞞や増長などが人をバケモノにしてしまう。そしてバケモノになった人間は、独り、流沙河の水底で生きるしかない、みたいな(自戒の意をこめて)。
「世はなべて空しい。この世に何か一つでも善きことがあるか。もしありとせば、それは、この世の終わりがいずれは来るであろうことだけじゃ。別にむずかしい理窟を考えるまでもない。我々の身の廻りを見るがよい。絶えざる変転、不安、懊悩、恐怖、幻滅、闘争、倦怠。まさに昏々昧々紛々若々として帰するところを知らぬ。我々は現在という瞬間の上にだけ立って生きている。しかもその脚下の現在は、ただちに消えて過去となる。次の瞬間もまた次の瞬間もそのとおり。ちょうど崩れやすい砂の斜面に立つ旅人の足もとが一足ごとに崩れ去るようだ。我々はどこに安んじたらよいのだ。停まろうとすれば倒れぬわけにいかぬゆえ、やむを得ず走り下り続けているのが我々の生じゃ。幸福だと? そんなものは空想の概念だけで、けっして、ある現実的な状態をいうものではない。果敢ない希望が、名前を得ただけのものじゃ。」
――またまた長いですが。沙虹隠士先生の教えです。要約すれば「その瞬間という現在を生きろ!」ということでしょうか。この世にある善きこととは「いずれこの世の終わり」がくるということ。含蓄のある言葉だと思いました。
「自己だと? 世界だと? 自己を外にして客観世界など、在ると思うのか。世界とはな、自己が時間と空間との間に投射した幻じゃ。自己が死ねば世界は消滅しますわい。自己が死んでも世界が残るなどとは、俗も俗、はなはだしい謬見じゃ。世界が消えても、正体の判らぬ・この不思議な自己というやつこそ、依然として続くじゃろうよ。」
――はたまた、沙虹隠士先生の教えです。人間進化の究極形は思念生命体(物質的な肉体は存在せず精神のみの存在)だとも聞きます。精神作用を生み出す肉体(脳という物体)なくしてどうやって精神を維持しうるのか、といった疑問も持たないではありませんが。なんだかSFちっくなお話ではありますが、そのこと?
「時の長さを計る尺度が、それを感じる者の実際の感じ以外にないことを知らぬ者は愚かじゃ。人間の世界には、時の長さを計る器械ができたそうじゃが、のちのち大きな誤解の種を蒔くことじゃろう。大椿の寿も、朝菌の夭も、長さに変わりはないのじゃ。時とはな、我々の頭の中の一つの装置じゃわい」
――続いて、坐忘先生の教えです。相対性理論を思いました。あるとき、相対性理論の意味を尋ねられたアインシュタインさんはこう答えたといいいます。
『熱いストーブの上に手を置くと、一分が一時間に感じられる。でも、きれいな女の子と座っていると、一時間が一分に感じられる。それが、相対性です』
女の子大好きなアインシュタイン先生らしい(最初の妻との離婚後、十八歳年下の従姉妹の娘と結婚しようとして嫌がられ、しかたなく―?―娘の母親である従姉妹と結婚し、しかし再婚後も六人の女性と関係していたという逸話が有名)名言ですが、坐忘先生、ひょっとしてアインシュタイン先生?
我々はみんな鉄鎖に繋がれた死刑囚だ
――これは流沙河の最も繁華な四つ辻で、遍歴中の悟浄が見かけたとある若者、白皙の青年がする演説の中の一言ですが、続く言葉を聞くに宗教的な教え(神を信じよ)を説いているようです。いまこうしている間にも世界のどこかで誰かが亡くなっていて、我々はその順番待ちをしている。そう言われればたしかにその通りなのですが、だから『我々の為しうるのは、ただ神を愛し己を憎むことだけ』という部分はよくわかりませんでした(無宗教だからなのでしょうか?)。悟浄もまた、青年の言葉が『聖く優れた魂の声だ』とは認めながらも、しかし自分が求めているのは『このような神の声でない』と感じており、やはり僕もその意見のほうにこそ共感しました。だけど藁をも掴む思いで真実救いを求めている人にとっては、心に響く演説なのかもしれませんね。悟浄が求めている「悟り」は「救われるための道」であるよう思えてじつは違うものなのだと感じました。
「僭越じゃな、わしを憐れみなさるとは。若いかたよ。わしを可哀想なやつと思うのかな。どうやら、お前さんのほうがよほど可哀想に思えてならぬが。このような形にしたからとて、造物主をわしが怨んどるとでも思っていなさるのじゃろう。どうしてどうして。逆に造物主を讃めとるくらいですわい、このような珍しい形にしてくれたと思うてな。これからも、どんなおもしろい恰好になるやら、思えば楽しみのようでもある。……」
――同じく流沙河の四つ辻から程遠からぬ路傍でのこと、悟浄は醜いせむしの乞食を見かけます(『せむし』とは「くる病」のこと。背骨が異常に曲がってしまい、背中が著しく後方に盛り上がっている人を示す。差別用語と捉えられるので使用注意)。身体障害といえば生きるのに不利な条件で、そんなふうに生まれたことを恨んでしまうのが普通なように、僕などは思ってしまうのですが、決して一概には言えないことだと学ばされる思いがしました。どんなおもしろい恰好になるやら、思えば楽しみのようでもある――省略した続きの部分がグロテスクなので、言い方にちょっと迷いましたが、しかしポジティブで素敵な考え方なのではないかと思いました。
「まず感じることです。感覚を、最も美しく賢く洗煉することです。自然美の直接の感受から離れた思考などとは、灰色の夢ですよ。」
――蒲衣子の弟子の一人の言葉。「考えるな、感じろ!」。そういえば『ハンターハンター』の念修行も「オーラの流れを感じるところからはじめましょう」的な感じだったような(余談中の余談)。
弟子の中に、一人、異常に美しい少年がいた。
――同じく蒲衣子の弟子の一人。悟浄が蒲衣子の庵室を去る四、五日前、一緒にいた別の弟子の前で水に溶けるようにして消えてしまいます。美しいものは儚いということ?
「徳とはね、楽しむことのできる能力のことですよ。」
――斑衣厥婆という齢500を超える女怪の言葉。好色で肉の楽しみを極めることを唯一の生活信条としている快楽主義者。容姿端麗な若者(イケメン)を集めて日々肉の楽しみに耽っている。一般的にはなかなか認められにくいことなのかもしれませんが、快楽主義にもやはり一面の真理があるように思いました。
「一つの継続した我とはなんだ? それは記憶の影の堆積だよ」
――長い遍歴を経て、悟りを開くどころか何が何だかわからなくなってきた悟浄にある男が言った言葉。最近村上春樹さんの『騎士団長殺し』を読んだのですが、その中にあったワンフレーズを思い起こしました。
『心は記憶の中にあって、イメージを滋養にして生きているのよ』
――村上春樹(2017)『騎士団長殺し』(第二部)新潮社,p376.
――「心が記憶の中にある」というのは、なんとなく僕の中では新鮮な考え方でした(有名な哲学的思考なのか、じっくり調べてみたいところ)。
外からいろんな模様を塗り付けられはしたが、中味のまるでないものに。
――前述のとおり、長い遍歴を経た悟浄は、以前よりもわけがわからなくなってしまい、これはいけないぞと本能的に直感するのですが、その様子がよく表れている比喩だと思いました。
「賢者が他人について知るよりも、愚者が己について知るほうが多いものゆえ、自分の病は自分で治さねばならぬ」
――悟浄が遍歴の旅の最後に会った女偊氏の教えです。結局人は誰かをただ頼るのではなくて、自分自身でどうにかしなければならない、みたいなことなのでしょうか? 当たり前といえば当たり前の結論なのですが。しかしながらいろいろな賢者と出会い、その教えを仰いできた悟浄には、身につまされる思いがします(当たり前のことを当たり前に思うことの難しさ)。とはいえ、いまの自分がどうすれば変われるのか、依然としてわからない。すると女偊氏は続けて言います。
「渓流が流れて来て断崖の近くまで来ると、一度渦巻をまき、さて、それから瀑布となって落下する。悟浄よ。お前は今その渦巻の一歩手前で、ためらっているのだな。一歩渦巻にまき込まれてしまえば、那落までは一息。その途中に思索や反省や低徊のひまはない。臆病な悟浄よ。お前は渦巻きつつ落ちて行く者どもを恐れと憐れみとをもって眺めながら、自分も思い切って飛込もうか、どうしようかと躊躇しているのだな。遅かれ早かれ自分は谷底に落ちねばならぬとは十分に承知しているくせに。渦巻にまき込まれないからとて、けっして幸福ではないことも承知しているくせに。それでもまだお前は、傍観者の地位に恋々として離れられないのか。物凄い生の渦巻の中で喘いでいる連中が、案外、はたで見るほど不幸ではない(少なくとも懐疑的な傍観者より何倍もしあわせだ)ということを、愚かな悟浄よ、お前は知らないのか。」
――ありがたい教えだということはわかる。わかるのだけれど。どこか釈然としないままの悟浄。
「『お互いに解ってるふりをしようぜ。解ってやしないんだってことは、お互いに解り切ってるんだから』という約束のもとにみんな生きているらしいぞ。こういう約束がすでに在るのだとすれば、それをいまさら、解らない解らないと言って騒ぎ立てる俺は、なんという気の利かない困りものだろう。まったく。」
――そこで独言悟浄の独り言が炸裂します。結局悟りを開いたとまではいえないのかもしれませんが、何かを吹っ切った(ただの開き直り?)様子がうかがえます。
一つの選択が許される場合、一つの途が永遠の泥濘であり、他の途が険しくはあってもあるいは救われるかもしれぬのだとすれば、誰しもあとの途を選ぶにきまっている。それだのになぜ躊躇していたのか。そこで渠ははじめて、自分の考え方の中にあった卑しい功利的なものに気づいた。嶮しい途を選んで苦しみ抜いた揚句に、さて結局救われないとなったら取返しのつかない損だ、という気持が知らず知らずの間に、自分の不決断に作用していたのだ。骨折り損を避けるために、骨はさして折れない代わりに決定的な損亡へしか導かない途に留まろうというのが、不精で愚かで卑しい俺の気持だったのだ。
自分は今まで自己の幸福を求めてきたのではなく、世界の意味を尋ねてきたと自分では思っていたが、それはとんでもない間違いで、実は、そういう変わった形式のもとに、最も執念深く自己の幸福を探していたのだということが、悟浄に解りかけてきた。自分は、そんな世界の意味を云々するほどたいした生きものでないことを、渠は、卑下感をもってでなく、安らかな満足感をもって感じるようになった。そして、そんな生意気をいう前に、とにかく、自分でもまだ知らないでいるに違いない自己を試み展開してみようという勇気が出てきた。躊躇する前に試みよう。結果の成否は考えずに、ただ、試みるために全力を挙げて試みよう。決定的な失敗に帰したっていいのだ。今までいつも、失敗への危惧から努力を抛棄していた渠が、骨折り損を厭わないところにまで昇華されてきたのである。
――長すぎますが、これが悟浄が悟りの旅で導き出した答えであり、大切なところであり、心に響く箇所だったので抜き出しておきました。やっぱり開き直っただけなのでは……、と思ってしまいますが、「考えるより動け!」という行動派の理念こそは思考派にとっての重要な悟りということなのかもしれません。まさに悟りとは人それぞれが見出すもので、誰かに教えられて開けるような、普遍的なものではないのだろうと、改めて認識できたように思います。
こうして旅を終えた悟浄は疲れ切ってしまい、ぶっ倒れるようにして昏々と眠りにつくのですが――目を覚ましてからの食事の美味さ、普段見慣れているはずの景色の美しさ、心機一転の晴れやかな心境が伝わってきます。
そんな悟浄の前に木叉恵岸と観音様が現れて、かの有名な西遊記、玄奘三蔵法師とその一行との出会いと旅立ちを予言され、その後予言が実現し、相変わらず独り言を呟きながら仲間たちと旅を続ける悟浄の姿で物語は締めくくられます。
観音様はその予言の際に、悟空から学ぶべきところが多いだろう、と悟浄に説くのですが、開き直った思考派の悟浄が行動派の悟空を見て何を思うのか、非常に興味深いところです。
続編の『悟浄歎異―沙門悟浄の手記―』も楽しみです。
読書感想まとめ
考えるより動け!
狐人的読書メモ
『忘れえぬ人々』、『桜の森の満開の下』、そして『悟浄出世』。凄い小説に出合うと興奮してしまうのです。
・『悟浄出世/中島敦』の概要
1942年(昭和17年)『新鋭文学全集2 南島譚』(今日の問題社)にて初出。『わが西遊記』として連作が予定されていたが、著者没により2編しか残っていない。凄い、おもしろい小説。おすすめ。
以上、『悟浄出世/中島敦』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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コメント
ありがとうございました。
苦悩している今の自分に通じる部分があり思わず泣いてしまいました 笑
導かれたかなぁ
こちらこそコメントありがとうございます。良き小説との出会いに、少しでもお役に立てたなら幸いです。