狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『セロ弾きのゴーシュ/宮沢賢治』です。
宮沢賢治 さんの『セロ弾きのゴーシュ』は文字数12500字ほどの童話。狐人的読書時間は約30分。金星音楽団一下手くそなセロ弾きのゴーシュを訪う猫、かっこう、子狸、野鼠。狐人が学んだ『みんなが幸せになれる方法』とは?
音楽として、音楽の入門書としても、
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
町の音楽会は10日後に迫っていた。セロ(チェロ)弾きのゴーシュは、活動写真館で演奏する金星音楽団の一員だった。金星音楽団は、第六交響曲を練習していたが、ゴーシュは楽団一下手くそだったので、いつも楽長に叱られていた。楽長の指摘は「リズムが悪い」「音程が合わない」「感情が出ていない」という3点だった。ゴーシュは遮二無二演奏したが、それらは改善されなかった。
家に帰っても、夜中までセロを練習するゴーシュのもとへ、大きな三毛猫がやってきて、「シューマンのトロイメライを弾け」と言う。三毛猫の生意気な態度に怒ったゴーシュは、「印度の虎狩」という曲を、嵐のような勢いで弾いた。猫は驚いて、ぐるぐる回って、苦しんだ。ゴーシュはそれをおもしろがった。扉に体をぶっつけて、猫は走り去っていった。
つぎの晩にはかっこうが、ゴーシュのところにやってきた。かっこうはゴーシュに「ドレミファを教えてください」と願い出た。はじめは疎ましく思うゴーシュだったが、かっこうに合わせてセロを弾いているうちに、鳥のほうが本当のドレミファに、はまっているような気がしてくる。しかしながら、かっこうのちょっとした一言に機嫌を損ねたゴーシュは、床をどんと踏んで、かっこうを脅かした。驚いたかっこうは、窓にぶつかりながらも、どうにか飛び去っていった。
つぎの晩は子狸だった。父狸のいいつけで、ゴーシュに音楽を習いに来たのだという。狸汁を知っているか、と脅すゴーシュだったが、その無垢な様子に気勢を削がれ、子狸の叩く太鼓に合わせてセロを弾くことに。子狸にリズムのずれを指摘されると、自分も夕べから感づいていたので、セロが悪いのだと悲しそうに認めた。子狸はお礼を言って帰っていった。
つぎの晩は野鼠の母子だった。病気の子鼠を治してほしいと懇願する母鼠に、医者などやれないとゴーシュが断ると、兎やみみずくや狸のお父さんを治したのに、この子を助けないのは後生だという。毎夜動物たちが自分を訪う理由はそれだったのか――どうやらゴーシュの弾くセロの音には、血行を良くして、動物たちの病気を治す効用があるらしい。それならばと、セロの孔に子鼠を入れてやり、演奏するゴーシュ。たちまち元気になった子鼠。十度もお礼を繰り返す母鼠に、ゴーシュはパンを渡して返してやった。
いよいよ町の音楽会の日、金星音楽団の演奏は大成功に終わった。アンコールを求める拍手がいつまでも鳴りやまなかった。楽長は、ゴーシュに何か弾いてくるよう指示する。ゴーシュはどうにでもなれと「印度の虎狩」を披露する。演奏を終えたゴーシュを待っていたのは、聴衆のまじめな表情、楽長の誉め言葉、仲間たちの称賛だった。家に帰ったゴーシュは、『ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ。』と言った。
狐人的読書感想
さて、いかがでしたでしょうか。
この物語の大枠は、一人の音楽家の成長物語だといえそうですが、決してそれだけに留まらない、すばらしい作品だと思いました。
物語の構成は、音楽を学ぶ過程と、一つの音楽そのものが、とても巧みに表現されています。
そして最後には、音楽家のみならず、誰もが大切にしなければならない謙虚な気持ち、とでもいえばいいのでしょうか、そういったものを教えてもらったように感じます。
以下、順番に見ていきます。
お付き合いいただけましたら幸いです。
音楽を学ぶ過程、巧みな構成力
『セロ弾きのゴーシュ』は、大きく6つの章に分割することができるように思います。
- 楽団の練習
リズム、音程、感情といった課題の提示。 - 三毛猫の訪問
怒りの表現を知る。 - かっこうの訪問
音程の合わせ方を学ぶ。 - 子狸の訪問
リズムの取り方を学ぶ。 - 野鼠の訪問
癒しの効果を知る。 - 町の音楽会
リズム、音程、感情といった課題の克服。
そしてこれらは、
- 3と4が音楽の基礎。
- 2と5が音楽の感情。
- 1と6が課題と成果。
といった具合に、それぞれ対応する形となっていて、中心から外にいくに従って、「基礎→感情→合奏」という音楽の学習過程と一致しています。非常に巧みな構成だと思わず唸らされてしまいました。
じつはこの構成に気がつくと、見えてくるものがあります。それは、意地悪なだけだと思っていた楽長の叱責が、的確な指導だった、ということなのですが。
楽長のゴーシュへの叱責を順に抜き出してみると、
- 「セロがおくれた」
リズムの取り方(基礎)。 - 「糸が合わない」
音程の合わせ方(基礎)。 - 「怒るも喜ぶも感情というものがさっぱり出ない」
音楽の感情表現(感情)。 - 「どうしてもぴたっと外の楽器と合わない」
合奏するということ(合奏)。
すごく的確に指摘していることがわかります。
……僕はただの意地悪だとばかり、……楽長ごめんなさい。
これは明らかに意図的な構成のように思われます。
宮沢賢治 さん自身、音楽(チェロ)の演奏経験があったということもありますが、創作メモの段階では、4章にあたる部分で登場する予定だったのは、野鼠の母子ではなくてリスだったことが知られていて、メモには「リス けずる」とあったそうです。
ゴーシュ自身もセロが悪いと言っているように(楽器のせいにしているだけなのかと思いましたが)、当初は技術的な問題ばかりでなくて、物理的な問題も題材として目立たせ、セロの穴の中で「リスがけずる」ことによってそれを改善するつもりだったのを、「基礎→感情→合奏」という音楽の学習過程を物語の構造としてより際立たせるために、あえて現在の形にしたのではないでしょうか(同時に音楽の癒し―ヒーリング―効果も表現できます。もちろん子鼠が穴の中でリスの役割を果たしたとも考えられます)。
……う~む。
凄い構成力だと唸らされてしまうのです。
(深読みしすぎ? どうでしょう?)
『田園』、一つの音楽そのもの
物語の構成についてはもう一点指摘したいことがあります。
それは狐人的読書感想の冒頭でも述べたとおり、この童話が一つの音楽を、物語として体現している、ということなのです。
宮沢賢治 さんは音楽好きで、たくさんのレコードを持っていたそうですが、その多くを友達にあげて手放しているなかで、ベートーヴェンの交響曲第6番だけは最後まで手元に残していたといわれています。
作中では第六交響曲とだけあり、それ以上の明確な記述はありませんが、町の音楽会で金星音楽団が演奏したのは、ベートーヴェンの交響曲第6番『田園』だったと考えて間違いないように思います。
そして、『セロ弾きのゴーシュ』の構成とベートーヴェンの交響曲第6番『田園』の構成はとても似ているように見受けられるのです。
交響曲第6番は以下の5つの楽章で構成されています。
- 第1楽章:田舎に到着したときの愉快な感情の目覚め
- 第2楽章:小川のほとりの情景
- 第3楽章:田舎の人々の楽しい集い
- 第4楽章:雷雨、嵐
- 第5楽章:牧歌 嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち
『田園』第1楽章では、当時ほぼ失聴状態だったベートーヴェンが、田舎の風景に愉快な感情を目覚めさせ、絶望から救われたような気持ちがしたといいます。『セロ弾きのゴーシュ』では、ここは「2.三毛猫の訪問」にあたり、ゴーシュの「怒りの感情の目覚め」が描かれているとは捉えられないでしょうか。
『田園』第2楽章は、小川のせせらぎと小鳥のさえずりが表現されています。『セロ弾きのゴーシュ』では、「3.かっこうの訪問」がここにあたり、まさに鳥の鳴き声という点で共通しています。「わたしらのなかまならかっこうと一万云えば一万みんなちがうんです」というかっこうの発言からは、宮沢賢治 さんの鋭敏な音楽センスが感じられました。
『田園』第3楽章は、表題のとおり楽し気な曲調となっています。『セロ弾きのゴーシュ』では、「4.子狸の訪問」と「5.野鼠の訪問」が対応していて、三毛猫とかっこうとの出会いが不和のまま終わっているのに対し、ゴーシュと子狸とのセッションはどこか楽し気な雰囲気が感じられましたし、子鼠の病気を治してもらった母鼠の喜びと感謝は言うまでもありませんよね。
『田園』第4楽章と第5楽章は、嵐とそれが過ぎ去った後の喜び。『セロ弾きのゴーシュ』の「6.町の音楽会」では、観客の拍手がまさに「嵐」のように鳴っていたと描写されていました。楽長や金星音楽団、ゴーシュの喜びが目に浮かんでくるように思います。
…………。
凄い構成力だと唸り声も出ませんが。
いかがでしょう?
みんなが幸せになれる方法
では最後は、この物語を通じて感じた、誰もが大切にしなければならない謙虚な気持ち、について書きたいと思います。
ゴーシュには、たしかに卑屈と捉えられるようなところがありますが、しかしそれはゴーシュと対峙する相手側にも問題があっての態度のように、僕の目には映りました。
楽長は、結果的にはまさに的を射た指導を行っていますが、「いじめられる」と描写されているように、頭ごなしに叱りつけている印象が否めません。それも一つスパルタ教育的な指導者の在り方なのかもしれませんが、しかしゴーシュはそれに怯えて、冷静に自分のどこが悪いのか、ということを見つめられず、ただやみくもに練習するばかりで、指導の効果が発揮されているとは言い難いように思います。
三毛猫は、生意気な態度が先行しすぎていて、ひょっとしたらゴーシュのためを思ってのふるまいだったのかなあ、と読むこともできますが、かえってゴーシュの態度を頑なにしている印象を受けます。
かっこうは、概して正しいことを言っているのですが、柔軟さに欠けたがために、ゴーシュの態度を結局は硬化させてしまった、とはいえないでしょうか?
そして、前述の二者に比べて、子狸と野鼠の母子はどうでしょう? 子狸の無垢な様子には、何かしてやりたいような気持がしますし、他意のない指摘には素直に頷かされてしまう向きがあるように思います。子のため懸命に懇願し、何度もお礼を言う母鼠の姿には、誰もが慈愛心を動かされずにはいられません。
つまるところ、人は自分を映す鏡。
教える側は教えられる側の鏡であり、教えられる側は教える側の鏡である、ということなのではないでしょうか。
謙虚な気持ちを持って、ひとと接することで、そのひとも優しい気持ちにすることができ、そしてそのひとがまた謙虚な気持ちで他のひとに接して……、そうなれば、みんなが幸せになれる、といったような教えが、この作品にはあるように、僕は感じました。
『ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ。』
正しいことを言っているかっこう。「血が出るまでは叫ぶ」という、ストイックな、音楽家として尊敬できるはずのかっこうの言葉を、謙虚な気持ちが足りなかったばかりに、素直に受け入れることができなかったゴーシュ。
ゴーシュのラストの台詞には、そのことがよく体現されているように思いました。
音楽家としても人間としても成長し、しかしていまだ発展途上のセロ弾きのゴーシュ。いつか、やりすぎの感が否めない三毛猫にも、謝罪し、感謝できる日がくるかもしれませんよね。
とてもすばらしい物語だと思いました。
読書感想まとめ
- 『セロ弾きのゴーシュ』は「音楽を学ぶ過程」である。
- 『セロ弾きのゴーシュ』は「ベートーヴェンの交響曲第6番『田園』」である。
- 『セロ弾きのゴーシュ』は「みんなが幸せになれる方法」が記されたすばらしい物語である。
狐人的読書メモ
ひとからの指摘、叱責の言葉……、なかなか素直に受け入れられず、ついものにあたったりしてしまいます。また、自分が苦しいときほどひとにやさしくすることの難しさも感じました。謙虚な気持ちを大切にしたい(言うだけにならないようにしたい……、けれど自信がない……)。
(自分が苦しいときほどひとにやさしく)
音楽を文章で表現するということ。
(興味のある方はこちらもぜひに)
・『セロ弾きのゴーシュ』の概要
1934年に発表された宮沢賢治 さんの遺作。ゴーシュにはフランス語の「不器用な」の意、あるいはチェロの擬音などの説がある。
以上、『セロ弾きのゴーシュ/宮沢賢治』の読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
(▼こちらもぜひぜひお願いします!▼)
【140字の小説クイズ!元ネタのタイトルな~んだ?】
※オリジナル小説は、【狐人小説】へ。
※日々のつれづれは、【狐人日記】へ。
※ネット小説雑学等、【狐人雑学】へ。
※おすすめの小説の、【読書感想】へ。
※4択クイズ回答は、【4択回答】へ。
コメント