百分の待ち人

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読書時間:およそ15分。
あらすじ:僕は小説が好きだ。僕は小説が好きだ、という話だ。そして、いま夏目漱石の『夢十夜』を読んでいる、という話だ。待ち人とは、待っている人じゃなくて待っている相手のことだ。すなわち、『百分の待ち人』とは、僕のことであり僕の彼女のことだ。要するに、恋人を百分待たせてはいけない、という話だ。

 

僕は小説が好きだ。

たとえば、死んだ女性が百合の花になって逢いにくるのとは反対に、もしも小説が女性になって逢いにきてくれたなら(その際、女性が美少女であったなら、なお申し分ないことは、あえて言うまでもないかもしれないが)、僕は直ちに、その女性に結婚を申し込むに違いない。

……いや、冷静に考えれば、僕にそんな度胸があるはずもない。

しかし、そう思ってもおかしくないくらい、僕は小説が好きだ、という話だ。

そして、いま夏目漱石の『夢十夜』を読んでいる、という話だ。

僕の読書には三つの特徴がある。

一つ目は、読書スピードが極めて遅い。

常人の二倍も三倍も、あるいはそれ以上の時間をかけて、ゆっくりと小説を読み進めていく。

それにはこういった理由がある。

僕は物語を読んでいるうちに、どんどん想像を膨らませてしまい、すぐに読むのを中断してしまうのだ。

『夢十夜』は、「こんな夢を見た」といったふうに、十の不思議な夢について綴られているのだが、「第二夜」では、「侍なら悟れぬはずはなかろう」と、和尚に小ばかにされた侍が、自分で勝手にタイムリミットを設けて、それまでに悟れなければ死ぬ、といったように、悟りか死か、究極の二択を己に課す。

これは、締切りに追われていた漱石が、自身の置かれた状況を、侍に置き換えて書いたのだと思うとおもしろい。

悟らなければならないのに悟れない。

書かなければならないのに書けない。

それで時計がチーン、というわけだ。

偉大な文豪でも、書けないときには書けないのだなと思うと、侍の悲壮な決意も、ちょっと笑えてしまう。

「第三夜」は、男が目の見えない我が子を背負って、田んぼ道を歩いているのだが、子供は見えないはずの周囲の状況を、次々に言い当てる。恐ろしくなった男は、視界の先にある森を目指すのだが……、森に入った男に背中の子供が言う。

「おとっさん、その杉の根の処だったね」

これは怪談を思わせるちょっと怖い話だ。それから、輪廻と、人が前世で犯した罪は、生まれ変わっても、雪がれることはないのだろうか――といった原罪的な不安を思わされる話でもある。

「第四夜」は、「手拭いを蛇にしてやる」とうそぶく爺さんが、結局手拭いを蛇に変えることなく、子供の自分が見守るなか、河の中へと消えてしまう……、なんだかよくわからない話だが、爺さんの正体と物語の意味をあれこれ考えてみるのはおもしろい。

――と、こんな感じで、すぐにページをめくる手が止まってしまう。

また、物語を読んでいて、ふと別のストーリー展開を思いついてしまい、自分で勝手に作った話が、どんどん膨らんでいって止まらなくなってしまうこともしばしばだ。

そう、いまちょうど「第五夜」にさしかかったところなのだが。

神代の時代、戦で負けた男が、敵の大将の前に引き据えられる。男は、一度は死を覚悟するも、死ぬ前に一目だけ、惚れた女に逢いたいと願う。大将は、男の願いを聞き入れて、夜明けまでなら待つと言う。

その頃、女は白い馬に乗って、一散に男のもとへと急いでいた。

しかし、アメノサグメという日本神話の女神が邪魔をして、女は深い淵へ落ちてしまう。男はアメノサグメを敵として憎む。

僕はその先の展開を考えてみる。

最後の逢瀬を邪魔された男の怨念が消えることはなかった。男は、幾度となく転生を繰り返して、怨敵であるアメノサグメと、いくつもの時代で、無数の闘いを繰り広げていく――だが、惚れた女の転生体には、いつまでも巡り逢えないでいた。

いつしかときは現代となり、男はようやくかつての恋人(幼なじみの同級生)と、運命の出逢いを果たすも……、再びアメノサグメが現れて……、と言った感じのラノベみたいな物語を空想してしまう。

あるいは、もしもアメノサグメが邪魔をせず、男と女が逢うことができていたなら……、その後の展開はどう続いていくだろうか、などと想像の翼を広げてみる。

またしても小説を読む手が止まっている。

「第六夜」は、運慶が仁王像を彫っているというので、散歩がてら見に行ってみると、あらかじめ木の中に埋まっている像を、ただ掘り出しているだけに見えて、いとも容易く自分の目には映る。それに触発されて、自分も仁王像を彫ってみたくなるのだが――

(てか、運慶って誰?)

――と思ったので、またしても読むのを中断して、検索してみると、どうやら鎌倉時代の有名な仏師(仏像を彫る人)らしい。

ところで、現代の読書は、とても便利になったという。

電子書籍やインターネットのなかった時代には、一度本を閉じて、いちいち分厚い辞書を引かなければならなかったそうだが、いまや同一タブレット端末上で、インターネットブラウザに切り替え、検索が終わればそれを閉じ、また電子ブックリーダーに戻ればいい。

読みたい本はダウンロードしてすぐ読める。素晴らしきかな電子書籍。

そんなこんなで、リーダーに戻るとともに、話も「第六夜」に戻ろう。

過去(鎌倉時代)の偉人(運慶)が、現代(明治時代)によみがえって――といった展開は、如何にも夢というに相応しい話だ。

家に帰った自分は、さっそく仁王像彫りにチャレンジするも……、運慶のようには仁王が彫れず――明治の木には仁王が埋まっていないと悟り、運慶の彫像が、今日まで生きている理由もほぼ解った、のだという。

その理由は二つあると、僕は解釈したわけなのだが。

一つには、運慶の生きていた鎌倉時代と、自分の生きている明治時代とでは、自然環境が変化してしまい、良い彫像を彫るのに適した、良い材木がなくなってしまったから――現代の環境問題を思わされずにはいられない。

もう一つは、時代が移ろい、現代(明治時代)には、運慶ほどの芸術家がいなくなってしまった、という実感が、アイロニーとして込められているのではないか。芸術に対する精神性や、想像力を持つことの重要性もさることながら、夢や信念、情熱を持って、勉強や仕事に打ち込むべきだという教えが、そこには含まれているようにも感じられる。

ふむ。なかなかに深い。

「第七夜」で、自分は大きな船に乗っている。

どこへ行くのかわからない……、不安になる……、不安を解消するためには――アイキャンフライ!

自分は海へダイブする。

おいおい……、――と思ったが、ダイブした瞬間に、自分は命が惜しくなる。心の底から「よせばよかった」と思う。しかしもう後の祭りだ。船は行ってしまう。どこへ行くかわからなくても、やっぱり乗っていればよかった……、無限の後悔と恐怖を抱えて、自分は海に落ちていく……。

大金持ちの家に生まれて、何不自由なく育ち、これから先も何の不安もなく生きていける――という人間(僕は一人知っている)が、世界にどれだけいるだろうか? 誰もが、将来の不安を抱えながらも、どうにかこうにか(あるいは漠然と)、いまを生きているのではないか。「第七夜」には、誰でも抱えているそんな不安が描かれているように、僕には感じられた。

家庭、学校、職場、人間関係……、そこから逃げるのは簡単なときもあるかもしれない。ときに逃げることで、つらい現実の問題が解消されることもあるかもしれない。しかし逃げた先が、いまより良い場所だとも限らない。

生きることへの不安を思わされる、自殺を連想させる話だと思った。ただ、貧しい国や内戦の続く国――いまを生きるのに、いっぱいいっぱいの人たちにとっては、贅沢な悩みなのかもしれない、とも。

「第八夜」は、床屋の鏡の中を通り過ぎていく人々と、鏡の中に映らない風景。直木賞を受賞したとある小説が頭の中に浮かんだ。その小説をまた読みたくなる。これもまた、僕の読書中にはよくあることだ。

そんなときにダウンロード。素晴らしきかな電子書籍。

だが、いまは『夢十夜』だ。

「第九夜」は、幼児を神社の拝殿に括りつけて、戦に行った夫の無事を祈り、お百度参りを繰り返す母親。縛った子が泣く……、母の足は早くなる……、されど夫はとっくの昔に……、こんな悲しい話を、夢の中で母から聞いた――というただただ悲しい話だ。

「第十夜」は、僕にとって、全体的に一番よくわからない話だ。

「第八夜」でも登場した謎の人物(?)庄太郎が、女に攫われて七日目の晩に、ふらりと帰ってきたというのだが――見知らぬ美女にほいほいついていってしまった庄太郎の末路。

美女に命令される庄太郎、豚を打つ庄太郎――どんな話(美人局に気をつけよう的な話なのか?)だよ、といった感じ(あるいはSMチックな話なのか……?)。それだけに、よくわからないおもしろさはあるのだが……、ぜひじっくりと読み解いてみたい。

とはいえ、これでようやく二週目が終わったことになる。

僕の読書の二つ目の特徴は、気に入った同じ小説を、何度も何度も繰り返し読む、ということだ。

たしか、ドストエフスキーの『罪と罰』を、繰り返し愛読している殺し屋がいたように思うが、それと同じような感じかもしれない。ただし、僕は一つの小説を満足するまで繰り返し読んだら、次の小説に移行するので、『罪と罰』のみを愛読しているその殺し屋よりは、偏執度は低いだろう(はずだ)。

ちなみに僕の「『夢十夜』ランキングTOP3」を、ここで発表するならば、

第3位は「第七夜」、

第2位は「第五夜」、

そして第1位は、やはりなんといっても「第一夜」ということになる。

私見ではあるが、おそらく『夢十夜』を読んで、十の夢のうち「第一夜」を一番に挙げる人は、もっとも多いのではなかろうか。

その理由は、人は恋をする生き物であり、「第一夜」は恋を思わせる物語だからだ。

もちろん僕だって恋をする。

すなわち彼女がいる。

「第五夜」での空想ではないが、彼女は幼なじみの同級生だ(美少女であるか否かはご想像にお任せする)。

なかなか信じがたいことに、僕と彼女は同日同時刻同じ病院で、この世に生を受けた。見ず知らずだった二人の父親は同日同時刻同じ病院で、子供の誕生を喜び合ったという。

それが縁で家族ぐるみの付き合いが始まった。

僕と彼女は幼稚園から大学まで一貫教育の同じ私立学園に通っている。なので幼稚園から高校まで、すべて同じ学校(ますます信じがたいことに、すべて同じクラスだった――詳細は省くが、当然これには裏がある)に通った。

そして、いっそう信じがたいことに、幼稚園・初等部・中等部・高等部と、成長する段階を経て、男女の友情関係は、良くも悪くも変化するのが、一般的だと思われるが、その間僕と彼女の関係に、劇的な変化は見られなかった。

幼・小・中・高と、朝になれば彼女は僕を迎えにきたし、昼休みになれば昼食をともにしたし、放課後になれば一緒に下校した(学校での席は、常に隣同士に座っていたが、これに裏はなく、ただの自由席)。休みの日には連れ立って出かけた。

ほとんどいつも彼女は僕の隣にいたし、ほとんどいつも僕は彼女の隣にいた。

そしていよいよ大学進学を期に付き合うことになった(ちなみにいまは、高校から大学に上がる前のインターバルとなる春休みの真っ最中だ)。

それにはちょっとした事情があったが、話し出したら長くなるので、ここでは控える。いずれ語る日もあるかもしれないし、ないかもしれない。

とにもかくにも。

僕は小説が好きで、『夢十夜』を読んでいて、彼女がいて、ゆえに十の夢のなかで「第一夜」を第1位に選んだ。

(繰り返し読むということの)繰り返しになるが、僕の読書の三つある特徴のうちの二つ目は、気に入った同じ小説を、何度も何度も繰り返し読む、ということだ。

そんなわけで三週目に突入する。

「第一夜」は、(おそらく)自分の恋する女性が、死ぬ間際、また逢いにくるから「百年待っていて下さい」と告げる。自分は、女の墓の傍に座って待つ。赤い日が、東の空に昇り、西の空へと落ちていく。自分はそれを数える。数えても数えても、百年が来ない。女にだまされたのではないか――と自分が疑い始めたとき、石の下から青い茎が伸びてきて、真っ白な百合の花を咲かせる。天から露が降ってきて、百合の花が揺れる。自分は首を前に出して、冷たい露の滴る百合の花びらにキスをする。百合から顔を離して、ふと空を見上げると、遠いところに暁の星が、たった一つ瞬いている。「百年はもう来ていたんだな」と自分は気がつく。

なんとなくロマンチックな話であることがわかる。

ここでもインターネットが活躍する。

『ロマンチック 夏目漱石』

ドラマなどで取り上げられて、いまや有名なネタになっているようなのだが、漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と和訳した、という逸話がある。これはどうやら間違って伝わった逸話らしく、「月がとっても青いから」と訳したのが正しいそうだが、いずれにせよ、夏目漱石が結構なロマンチストだったことがうかがえる話である(かつての文豪にはロマンチストが多い印象がある。そのくらいでなければ人の心を動かす小説は書けないのかもしれない)。

また「第一夜」については、漱石の「禁断の恋」が描かれているのではないか――といった説もあるそうだ。憶測の域を出ない話だが、漱石が兄嫁に恋をしていたのでは……、という噂があって、この恋心を描いた物語が「第一夜」だというのだ。

たしかに、いわれてみれば、現世では叶わぬ恋を、女が転生することで、叶えようとしているふうに読めないことはない(――というか読める)。

夏目漱石は、ロマンチストである以外にも、激情家として知られていたそうで、その思いの烈しさのようなものが、「第一夜」から読み取れるように思うのは、はたして僕だけなのだろうか?

「第一夜」は、どちらかといえば、静かで幻想的な物語であるのだが、恋しい女を百年待った、という、この「百年」に、想いの強さが表れているように思う。

ぼくの知っているなかでは、五十一年九か月と四日、愛する女を待ち続けた男の物語があって、これは凄まじいな、と思った記憶がいまでも鮮やかによみがえるが、百年はそのさらに二倍である。

もちろん、現実的に、一人の女性を、何十年単位で待ち続けるような状況は、想像しがたいものではあるが……、ん?

待つ、現実……。

……。

…………。

………………。

ところで。

僕の読書の、三つある特徴のうちの最後の一つを、まだ言っていなかったように思う。

僕の読書の三つ目の特徴は、小説を読んでいると時間を忘れてしまう、ということだ。

――などと現実逃避をしている場合ではない。

ようやく僕は現実に引き戻される。

そこはカフェの店内だった。

とりあえず一口。

窓際のカウンターテーブルに置いたまま放置していたカップの中身は、とっくに冷え切っていた。

まあ、冷めたコーヒーも嫌いではないのだが。

僕がなぜ、カフェにいるのかと訊かれれば、待ち合わせをしていたからだ、と答える。

僕がなぜ、カフェで読書をしているのかと訊かれれば、約束の時間よりも早めに待ち合わせ場所に着いてしまったからだ、と答える。

僕は、いままで小説を読んでいたタブレット端末で時間を確認する。

なんと、偶然にも、待ち合わせの時間から、一時間四十分が経っていた(十五分ほど時間を潰すだけのつもりだったのに)。

つまり、

「百分はもう来ていたんだな」

そんなことをひとりごちている場合でもない。

来ていた、のではなく、過ぎているのだ。

しかし、右隣の席は空席のままだ(端っこの席に座っているので、左隣に席はない)。

ふむ。

彼女はだいぶ遅れているのだろうか――そんなわけがない。

スマートフォンを取り出して確認すると、新着メールが一件。着信日時はいまからおよそ八十分前だった。

【わたしよりも小説が好きなら百年でも千年でも待ってればいいよ】

小説と結婚すればいいよ。

……。

…………。

………………。

そんなこと思ったこともないわけだが。

これまで、僕らは外で待ち合わせというものをしたことがなかった。用事があれば、いつもどちらかが、どちらかの家に出向いていた(ほぼ彼女が僕の家に出向いていた)。どこに出かけるにもそこが出発点となった。

彼女の提案で、せっかくの初デートということで、今回初となる外での待ち合わせを決行してみたわけだが……。

そういえば以前、彼女が「待ち合わせをしたとして二十分までしか絶対待たない」と宣言していたのを思い出す(どうしてそんな話になったのかは思い出せないが)。

その宣言があったことを鑑みるに、僕の右隣に座って、小説を読むのに夢中になって無反応な僕を、二十分間待ち続けたのち、隣にいるにもかかわらず、メールを送って立ち去っていく――彼女の姿が容易に想像できる。

いや、容易には想像できない。

彼女と僕は長い付き合いだ。

彼女は僕のことをよくわかっている。

僕が小説に没頭し過ぎることなど、これが初めてではない。むしろ日常茶飯事といって差し支えない(いや、差し支えはあって、彼女が差し支えなくしてくれていたのだが、ともかく)。

これまでの彼女なら、それでも、やれやれしょうがないなあ、といったふうに、隣で僕を待っていてくれたはずだ。

少なくとも、僕の家に僕を迎えにくる彼女は、そうしてくれていた。

では、いまは何が違う? 何が変わった?

場所か? 場所が悪いのか?

まあたしかに、僕の家と外のカフェとでは、落ち着き具合が全然違うかもしれないけれど。

しかし、いまはそんなことを、つらつら考えているときではなかった。

僕は、読書に使っていたタブレットを鞄の中に押し込むと、スマートフォンを耳に当てながら、冷めたコーヒーを一気に流し込み、カップをゴミ箱に捨てて、店の外へ――

――その後、あんなメールを送ってきつつも、待ち合わせ場所のカフェの近場で、ちゃんと僕を待っていてくれた彼女と合流した。彼女は普段どおり、別に怒っている様子もなかった。晴れて恋人同士、ということで、恋人らしいことをしてみたかったのだろうことは、それこそ長年の付き合いから、今度こそ容易に想像できる。

とはいえ。

今日の教訓。

夢の中の恋人は百年でも待ってくれる。
現実の恋人は百分待ってはくれないものらしい。
(てか現実の恋人を百分待たせてはいけない――人として)

<ドリームエンド、終>

……ん? ドリームエンド? 『夢十夜』だけに夢オチだと?

美少女で、同級生の幼なじみな、百分待たされて怒らない彼女が、現実に存在するはずがないって?

ではそれこそご想像にお任せしよう。

たっぷりと時間をかけて、繰り返し読み、時間を忘れて、読書を楽しめば、この小説が夢の話か現実の話か、あるいはわかる人がいるかもしれない。

それではいずれまたどこかで(会えるかもしれないし、会えないかもしれない)。

<メタエンド? 終?>

 

読んでいただきありがとうございました。

 

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