狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『星あかり/泉鏡花』です。
文字数5000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約16分。
由比ヶ浜へ夜の散歩に出かけた主人公のとある恐怖体験。
将来への不安とドッペルゲンガー。
世界には自分のそっくりさんが3人いるので
(疑似的な)ドッペルゲンガー体験は不可能じゃない?
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
倒れている墓石を二つ重ねて台にした。その上に乗って、雨戸の上をガタガタ動かしてみたが、どうも開きそうにない。雨戸の内側は、神奈川県西鎌倉乱橋にある妙長寺、本堂横の八畳の座敷、そこに友人が寝ている。「開けてくれ」と頼めばよいものの、その友人が「よせ」というのも聞かず、夜の墓場の散歩に出たので言い出せず――どうやら閉め出されてしまった。
仕方なく和尚と婆さんの住む本堂の前まで行ってみたが、「いっそのこと海岸まで行ってみようか」と思い直してぶらぶら歩き出した。
途中幾度も立ち止まる。由比ヶ浜まではまだ三町くらいある。それほど遠くはないが、身体も精神もひどく疲れていた。真っ直ぐ立っているだけでもつらかったので、また歩き始める。
道の両側に続く人家からは人の気配が感じられない。その寂寞に下駄の音が妙に響く。廂、屋根、杉の葉、百姓屋の粉挽臼……、それらすべてにじろじろ睨まれているような気がする。
人家のある通りを過ぎて、ようやく石地蔵のところに立つと、犬の吠え声が聞こえる。浜際に七、八軒の人家があり、またそこを通らねばならないのかと思えば寒気がした。が、先程の視線のことを思えば引き返すのも憚られる。
不安と恐怖に倒れそうになったとき、向こうから荷車がやってきて少し元気づく。きっと朝市に行くのだろう、だいぶ時間が経ってしまったようだ。しかし、荷を何も積んでいない荷車は、山道の方へ消えた……。
余計なことは考えないようにして、一気に由比ヶ浜までやってきた。押しては引いていく波、幾億万年ののち、この波が大陸を浸し尽くすのかと思えば心細く感じる。波に足を取られ、引き上げられた難破船に手をついた。そして船底に銀のような水が溜まっているのを見た。
逃げるようにして妙長寺に帰り着き、力任せに戸を開けて、部屋の中を見ると――そこにはすやすや寝ている自分がいた。目を開いて外を見ると、たったいま帰ってきたばかりであるはずの自分の姿はどこにもない。
人はこういうことから気が違うのであろう。
狐人的読書感想
ホラー小説です。
幻想怪奇小説といったほうが趣があっていいですかね。
といっても、狐人的にはそれほどの恐怖は感じませんでしたが。
泉鏡花さんの小説は文語体のものが多く読みづらい印象を僕は持っているのですが、あるいはそのせいでちゃんと読めていないがために内容を十全に理解できておらず、ゆえに恐怖を感じられていないだけなのかもしれませんが。
とはいえ、この『星あかり』は比較的読みやすい作品のように思い、不思議な読後感があります(そしてこのことは泉鏡花作品全体を通していえることのように思います)。
主人公は夜中の墓場や由比ヶ浜をさまよい、そこで不安や恐怖、焦燥感みたいなものを感じているようなのですが、これは人間誰しもが感じている「将来への不安」みたいな感情の表れではないかと思いました。
人生はまさに順風満帆、不安は微塵もなく、充実したいまという時間を謳歌している――そんな人が世界中にどれだけいるのかなあ、ということをふと考えてしまいます。
(そんな人はいない? それとも意外と多い?)、いずれにせよ、ある程度の年月を生きてきて一度も将来への不安を持ったことがないという人はいないのではないでしょうか?
きれいな夜空を眺めていて、きれいだなあと思っていたはずなのに、いつのまにか怖いような不安が襲ってくるみたいな(……わかりにくいか?)、人は命が尽きたときいったいどうなってしまうのだろうみたいな(こっちかな?)。
そんな将来への不安が描かれている小説だと僕は感じました。
実際調べてみると、泉鏡花さんは鎌倉に滞在していた時期があり(1891年―明治24年―7月~8月)、そのときの経験をもとにして書かれた小説の一つが『星あかり』だといいます。
当時泉鏡花さんは18歳、尾崎紅葉さんに弟子入りする前で、文学を志したばかりの青年が抱えていた不安がどのようなものだったのか、なんとなく想像できるような気がしました(ふと、夏目漱石さんの『夢十夜』―第七夜―を読んで書いた読書感想を思い出しました)。
前述のとおり、『星あかり』は鎌倉を舞台に書かれた小説として有名ですが、もう一つ「ドッペルゲンガー小説」としても知られています。
いまや説明の必要もないのかもしれませんが、ドッペルゲンガーといえば、「生存中の人間と瓜二つの霊を目撃する現象」を表す言葉(ドイツ語)で、本人が見たら近く命を落とすともいわれていますよね。
ドッペルゲンガーは昔から文学のモチーフとしてよく描かれていて(これまでの読書感想の中では『Kの昇天/梶井基次郎』とかあります)、いまでは漫画やアニメやゲームでもこれに似た能力や現象を目にする機会も多いように思います(カストロの念能力「分身(ダブル)」を連想してしまうのは僕だけ? ……ナルトの「影分身の術」もあるいはドッペルゲンガーといえるのでしょうか?)。
ちなみに一番最初に「ドッペルゲンガー」の語を用いたのは、ドイツ・ロマン派の作家ジャン・パウルさん(『ジーベンケース』―1796~1797年―)なのだそうです。
日本では明治以前に「影の病」や「離魂病」という名称でこの現象が知られていましたが、現在の精神医学的には幻覚の一種とされていて、癲癇、統合失調症、躁うつ病の症状の一つとして体験されます。また健常者においても過労、心労による意識水準の低下でまれに見られることがあるそうです。
ドッペルゲンガー。
狐人的にも興味深い現象、モチーフだと思っています。
そういえば、芥川龍之介さんがドッペルゲンガーを体験した、という有名な話があるのですが、実際どんな気持ちがするものなのでしょうねえ、自分のそっくりさんに出会うのって。
まあ、ドッペルゲンガーを見ることすなわち寿命が近いということなので、見たいかどうかと訊かれると……(いわずもがな)。
しかし「世界には自分のそっくりさんが3人いる」ということはよくいわれている話なので、現実的に(疑似的な)ドッペルゲンガー体験をするのは不可能ではないのかもしれませんよね。
なのでいずれにせよ、ドッペルゲンガー体験をしたことのある人は、意外に少なくないのかもしれません。
自分のドッペルゲンガーを見るってどんな気持ちがするものなのか。
経験されたことのある方がいらっしゃったらぜひ教えてください。
読書感想まとめ
将来への不安とドッペルゲンガー。
狐人的読書メモ
……ドッペルゲンガーを見る気持ち、一卵性の双子の人に訊けばわかるのでは? ――と気づくも、生まれながらにしていつも一緒にいる感覚とはきっと違う(はず)と思い直すも、そもそも世界に3人しかいないそっくりさんを探し出すことのほうが不可能なのでは……。
・『星あかり/泉鏡花』の概要
1898年(明治31年)初出。発表時のタイトルは『みだれ橋』であったがのち1903年(明治36年)に『星あかり』と改題される。尾崎紅葉に弟子入りする以前、著者泉鏡花自身の不遇の時代がモデルとなっている。
泉鏡花の『星あかり』の主人公(視点人物)は、自身の対峙する外界運動に飲み込まれ、浸食され、自立性を失っていく。結果、それは自己幻視体験であったことが語られる。確固たる自己の輪郭を欠いた主体、これを中心に再現される世界。語り手が主観を排して対象を描写する写生文。排除すべきものを顕在化させることの必要性。
以上、『星あかり/泉鏡花』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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