西のアークライト王国。王城がそびえる敷地内に、その塔はある。
地下の牢獄。
城内で罪を犯した者を一時的に幽閉する場所だ。
その性質上、使用されることは少なく、
城内に暮らす王族、あるいは働く者たちからも
ほとんど忘れられた場所である。
そこに今、ひとりの女が投獄されている。
紺の修道服姿――亜麻色の髪の染料は、検めの時に落とされていた。
黒髪。瞳の色もまた同じ黒。
黒目黒髪は、東のマガハ女王国の人の特徴である。
そして檻を挟んだこちら側にもひとり、老女と少女を連れた黒目黒髪の女。
牢の中の虜囚を傲然と見ていた。
漆黒のドレス姿は、一目で貴人とわかる。
マガハ女王国から嫁いできた、アークライト王国第三王妃。
しかし本人は「第三」をつけて呼ばれることを嫌っている。
ゆえに、周囲の者にはただ「王妃様」とだけ呼ばせていた。
そんな王妃様が静かに口を開いた。
「十二年前のあのとき、深手を負いながらもあの場から逃げおおせた暗殺者が、まさか生きていたとはね」
ちらり視線を移す。その先にいる黒のローブをまとった老女は、
「面目次第もございません、王妃様。あれほどの深手、まず命はあるまいと高をくくっておりました。当時、捜索はいたしましたがついぞ死体は確認できず、用水路にでも身を投げ、そのまま流されていったものと……」
目深に被ったフードの下からそう答えた。
「言い訳はけっこうよ。過ぎてしまったことはどうしようもないわ。それよりも現在の問題の対処に努めなさい」
「はっ」
老女は短く返答すると数歩、前に進み出た。
「久しいな、イスズよ。よもや十二年の歳月を経て、再びお前に見えようとは思わなんだわ」
「……里長」
牢の中の女が無感情に声を絞り出すようにして老女を呼んだ。
「里長の役目など、とうにつぎの者へ引き継いでおる。いまの儂は、こちらの王妃様の相談役としてお側に仕えさせてもらっとる。もちろん、里との仲介役も兼ねてな」
「では、やはり里は――」
「変わらず、いまもそこにあるわい。もちろん、暗殺者の里として、な」
フードの影から覗く老女の唇が歪んだ。
「お前にはやはり礼を言わねばなるまいな。十二年前、お前があの任務をやり遂げてくれたおかげで、ここにいる王妃様の後ろ盾を得ることができた。いまや里には、各国の貴人から高額で依頼が舞い込んでくるようになり、存続の危機から脱することができた。暗殺もグローバル化の時代というわけじゃ」
牢の中の女は奥歯をきつく噛みしめた。
自分はそんなことのために……。
悪鬼羅刹となりて。生まれたばかりの赤子を呪い殺したわけではなかった。
ただ、里の未来のため……。
斜陽の暗殺稼業を里から廃し、普通の村落と変わらぬ暮らしを始めるため。
同じ思いを抱く同志たちのため――
女は過去を悔いていた。
暗殺の仕事が激減していた時代、みな高額の依頼料に目が眩んだのだ。
里の体制を刷新、新体制を確立し、軌道にのせる。
それには莫大な金と旧体制派の妥協が必要だった。
そのために――
旧体制派が持ち込んだ、他国の姫を暗殺する依頼を引き受けてしまった。
しかも、これから生まれてくる予定だった赤子の。
いくら暗殺者集団とはいえ、二の足を踏まずにはいられない依頼を――。
「当然、反逆者どもはみな処分した」
……覚悟していたことだった。
女が捨て駒として処分されかけた、あのときから。
ようやく歩み寄る姿勢を見せた、里の旧体制派の者たちの裏切り。
今にして思えば、その歩み寄りは欺瞞であった。
一族の中でも特殊な呪術が使える暗殺者――
女に姫殺しを実行させるだけが目的だったのだ。
任務完了とともに、女は呪術行使の代償を支払うことになる。
今後、一切の術が使用できなくなる――という大きな代償を。
里の実力者であり、新体制派に組し、旧体制派にとっては最も目障りな女。
排除するにはこれ以上ないタイミング。
と同時に、里では新体制派を一掃する。
暗殺という生業を成す以上、里の結束は固く、裏切りは禁じられていた。
その禁をあろうことか、古からの暗殺稼業に固執する旧体制派が犯した。
新体制派の者たちは甘かったのかもしれない。
――たとえ意見は違えても、同じ里の仲間だ。
古くから続く里の禁忌を犯してまで新体制派を駆逐する――
まさかそれを実際に行うとは。
一顧だにしなかったのだ。
女は覚悟していた。新体制派の同志たちが皆殺しにされる恐れを。
しかし、一縷も望みを抱かなかった――といえば嘘になる。
命を救われ、辛くも生き延びた女は新たな使命を得ていた。
その使命のために、少女から離れるわけにはいかなかった。
だから女が潜んだ孤児院の用事で、冒険者ギルドへ赴くと。
故郷の里の情報が得られないか。
冒険者たちや受付の者たちからそれとなく探った。
だが、何も知ることはできなかった。
他国の、しかも隠匿された暗殺者の里のこと。
噂話さえも聞けず、女もさして期待していたわけではない。
それでも探らずにはいられない、後悔あるいは慚愧に似た思いに駆られる。
十二年間。一日も考えぬ日はなく――
その細い希望の糸がいま、ぷつり、断ち切られた。
女を――新体制派を裏切った、旧体制派の首魁だった老女によって。
女の胸に微かな痛みが走る。
が、微かな痛みは微かでしかない。そう、覚悟はしていたのだ。
理由はどうあれ、女はこの世に生を受けたばかりの赤子の命を奪った。
女も、また新体制派の同志たちも。
それは、自らの里の未来を切り開くため、と納得したこと。
だが、その報いを受けて滅んだのだといわれてしまえば――
返す言葉はなく。受け入れるしかない。
できることなら目の前の老女を八つ裂きにしてやりたい。
されど、その資格が自分にあるとも今の女には思えない。
だから、優先されるべきは――女の復讐心やまして命などではない。
新たに与えられた使命。託された命を生かす。
ただそれだけのために。
これまでの十二年を女は生きてきた。
そしてこれからも――
「愚かな反逆者どもの末路を、仔細に語り聞かせてやりたい気もするがの、残念ながら昔話に花を咲かせにきたわけではない」
と、老女は暗殺者の歩法を用いて、消えるように移動する。
次の瞬間には、王妃の後ろに控えていた少女の背後に回っていた。
いつの間にか手に小刀を握り、その切っ先を少女の首筋にピタリとあてた。
「さあ、お嬢ちゃん。この者に、何か尋ねたいことがあるんじゃないかい?」
老女は芝居がかった猫撫で声で言った。
「シ、シスター……シスター・アマリリス……」
少女は懸命な様子で女を呼んだ。
灰色のボロのワンピースを着た、
金髪碧眼の少女である。
「あの、この方たちは知りたいことがあって、わっ、わたし、それを聞きださなければ、こ、殺されてしまうんです」
女は――シスター・アマリリスと呼ばれた女は、
必死な態の少女を常の無表情のまま観察している。
「だ、だから、お願いです! 教えてください!」
少女は目に涙を浮かべて、聞いた。
「メアリの居場所を。あの子をどこへ逃がしたのですか?」
「…………」
シスター・アマリリスはしばらく無言で少女を観察し続けた。
老女の小刀を握る手にわずかばかり力がこもる。
少女の首に赤い雫が浮かび、一筋、垂れた。
そして、
「やはりあなたでしたか、ソフィア」
シスター・アマリリスは静かな口調で確信を持って、少女の名前を呼んだ。
「あの朝、私の部屋に夢見草の残り香がありました」
夢見草の香は、嗅いだ者を深い眠りへと誘い、夢を見せる。
その夢の内容は、嗅いだ者が過去に経験した出来事である。
そして、強い想いを残した記憶ほど夢として発現しやすい。
シスター・アマリリスはその知識を二人の少女に教えた。
念のため。いずれ森で生き抜くための知恵の一つとして。
いま、そのうちの一人が目の前に立っていた。
「あの夜、私は確かに過去の記憶を夢に見ました。そして目覚めたとき、いくつかの寝言を口走った感覚を覚えていました」
その寝言の中に、少女の真の名が含まれていたと仮定する。
では、知られてしまったのではないか。
少女の存在を決して許せぬ者に。
少女が生きている事実を。
いや、そうでなくとも。
確実にいるのだ。
少女の存在、その出自を疑う者。
夢見草の香を用いてまで、それを知ろうと企てる者が。
必ず、いる。
その朝、シスター・アマリリスは少女を馬に乗せた。
十二年間、緊急用に準備を怠らなかった背負い袋を持たせて。
ついに森へと送り出したのである。
「まさか、自分が教えた者に足元をすくわれるとは。十二年という歳月は、人を鈍らせるには十分な時間であるようですね」
シスター・アマリリスはいくばくも表情を崩さずに続けた。
「いったい誰の差し金ですか? そこの老人や第三王妃でないことは、少し考えればわかります。……いいえ、これまであの子の出自を誰にも、わずかばかりも疑われないようふるまい、実際そうなっていた自信があります。いったい誰が、彼女の存在に気づくことができたのです?」
シスター・アマリリスは無表情のまま、少女に問う。
問われた少女は、
「…………」
目に溜めていた涙を服の袖で拭う。
腕を下ろした少女の目に、もはや涙はない。
そして、
その表情は冷めたものに変わっていた。
「いったい誰が、ですって?」
少女は独白するように言葉を絞り出した。
「わたしよ、シスター。このわたしが、あの子の正体に気づいたのよ! メアリが、あの子が第一王妃様の娘――死産だったとされているソフィーリア王女殿下である事実にね!」
ソフィアは右手を胸に当てて、
「ずっと疑問だったわ。なぜあの子は特別なんだろうって。頭のよさや運動神経、天才的な術の適性だけじゃない。あの子は、あなたにとって、いつも特別だった」
少女が常に演じてきた聖女のような顔も口調もかなぐり捨てて、
「あなたはいつもあの子にはそっけない態度をとっていたわ。ときには冷たくさえあった。掃除の仕方が悪いと言って、灰を頭からぶちまけたり。一番汚いボロを着せたり。でもそれは、あの子をできるだけみすぼらしく見せて、正体を隠すためだったのでしょう?」
ソフィアは続ける。
「そんなあの子をいつも洗ってあげてた、わたしにはわかっていたわ。灰や煤で汚れて、いつもぼさぼさ伸ばしっぱなしのくすんだ金髪。でも、その汚れに隠された美しさが、あの子にはあった」
ソフィアは暴く。
あの子は金髪、わたしは金髪じゃない。
王国において、美しい金髪は高貴なる血筋を示す。
「それなのに――あなたはあの子だけは十二歳になっても売ろうとはしなかった。磨けば光る孤児の少女、ロリコン貴族が喜んで大金を払うだろう少女を、なぜ売らない?」
老女が少女の首から小刀を離す。
虜囚に情報を吐かせるための芝居だったが――
堰を切って話し始めた少女の様子に、
もはや無意味と悟ったのだ。
「ほかにもいろいろとあったけれど。ともかく、わたしはそれらのことからひとつの仮説を立ててみたの。最初は自分でも夢見がちな少女みたいで、ばかばかしいって思ったわ。だけど、自分なりに調べていくうちに、その仮説を信じる気になっていた」
ソフィアは老女の動作など気にも留めず、
「決定的だったのは、わたしがウリに行った先のロリコン貴族から、死産だった第一王妃様の娘の名前が聞けたこと。その名前はソフィーリア」
シスター・アマリリスが十二年間隠し続けてきた真実を暴き立てる。
「そして、わたしの名前はソフィア。ソフィーリアの愛称であるソフィア。あなたがつけてくれたソフィアよ。そう、あなたがつけてくれた、ね」
ソフィアはそう、孤児院長から聞き出していた。
「だから、シスターにとってわたしは特別。そう信じていた。そう、信じていたかった。なのに――わたしはすぐ悟ったわ」
檻の中の女を冷たく見据える少女の目――
「シスター・アマリリス、あなたは、メアリが――死産だったはずの王女が生きていたと王妃様に知られたとき、わたしを身代わりにするつもりだったんじゃないの?」
その目の奥に焔ゆらめく。
「…………」
シスター・アマリリスは何も答えない。
変わらぬ無表情のまま。
じっとソフィアの話を聞いている。
「……否定してくれないのね」
その刹那、少女の目の焔は消えて、
「それを悟ったときのわたしの気持ちがあなたにわかる? 親のように思っていた人に、裏切られたと知った、わたしの気持ちが! ばかげてる! 親に捨てられ、劣悪な孤児院で育てられ、ロリコン貴族どもに身体を売らなきゃならなくて、それでも、本当の親のように、一番愛してほしかった人に、別の子のために生かされてきたと知った、このわたしの気持ちが!」
焔はいっそう激しく燃え上がった。
「それであなたは、姉妹のように育ってきたあの子を、あの子の存在を邪魔に思う人に――あの子を殺そうとする人に売ったのですか?」
少女とは対照的な、静かな声でシスター・アマリリスは聞いた。
「……そうよ。ロリコン貴族のひとりを通じてね。夢見草の香を手に入れてくれたのもあの人。あなたが寝言でいろいろと喋ってくれたおかげで、わたしにはあの子の出自を百パーセント確信できたわ。夜中のうちに院を抜け出して、すぐ捕えに行くよう貴族に教えに行ったわ。それなのに、あのグズ、まずは王妃様に判断を仰ぐ必要があるって早馬を飛ばして……それで、逃げる時間を与えてしまいました……、申し訳ございません」
少女は最後の部分だけ、王妃様をうかがうように見て言った。
「報告や相談は大切よ。だけど独断専行することもときには必要ね。今回のケースがまさにそれだわ。まあ、あのロリコン男にそこまでは期待できそうにもないわね。ともかく、その件であなたに落ち度はないわ。どころかとても有益な情報を私にもたらしてくれた。もしあなたがいてくれなかったら……、あの女の娘が私の知らないところで生きていたことをずっと知らないまま……、考えただけでぞっとするわ」
王妃は本当に身震いして、
自らの両肩を抱き締める。
「私、あなたのような聡い子は好きよ。今回の働きのご褒美として、私の側仕えにしてあげる。孤児院なんかよりもずっといい暮らしをさせてあげるわ。これからも私の役に立ってちょうだいね」
王妃様のお褒めの言葉を受けて、
少女の表情がパッと輝いた。
「さて、あなたたちのお話はそれくらいでいいかしら。――それであなた、娘の居場所を教えるつもりはないのね?」
王妃の問いに、檻の向こう側の虜囚は無言で答えた。
「……わかったわ。では、いまのところあなたに用はありません。二人とも、行きますよ」
王妃はそれだけ言い置くと、あっさりと牢のある部屋を出る。
「王妃様、よろしかったので?」
あとに従う老女と少女、その老女の方がそっと尋ねた。
「娘の居場所? だいたい予想はついてるわ」
「……それは?」
「聖域よ」
「まさか!?」
老女は思わず声を上げた。
「虜囚は、娘が生きている事実を否定しなかったわ。絶対に安全だと確信できる場所に逃がさなければ、ああは余裕でいられないはず――それと一応、その情報さえ渡せば王女ではないあなたの身の安全も確保できる、と始めから考えていたのかもしれないけれど、……それは、どうかしらね」
王妃はちらと少女を見たが、その冷えた表情に変化はなかった。
「……しかし確かに、これで追っ手をやるのは難しくなりましたな。聖域に足を踏み入れることの許されしは、四大国祖の血に連なる者と定められております。しかし、そこが絶対に安全な場所とは言えますまい。なぜなら――必ず戻ってこられる保証はない」
老女が、その場所に要人を逃がすことの懸念を口にする。
「ひょっとしたら、聖域で生き延びられるだけのすべを、娘に授けているのかもしれないわね。あの虜囚、暗殺者の里では相当の実力者だったのでしょう?」
塔の階段を上りながら、王妃は思案を巡らせていた。
「あるいはそれ以外の何かが……とにかく。聖域で死んでくれれば何の問題もないのだけど。そうなれば、やがて王位は確実に我が子のもの。けど最悪を考えて、何か手を打っておかなきゃいけないかしら、ね」
王妃は思案を巡らせ続けていた。
≪つづく≫
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