「わたしはあなたのペットになります」
少女は「ペットになる」と即答した。
「だから殺さないでくれますか?」
「……君、おもしろいね。ひょっとして何かの能力?」
興味深い、と。くまのぬいぐるみは、少女に尋ねた。
「生きていればきっといいことがたくさんあるんです」
それはシスター・アマリリスが別れ際に言っていた言葉だ。
メアリの母親が言っていたという言葉。
信じてもいないくせに。どうしてこんなことを言っているんだろう。
メアリは自分でも不思議に思う。
目の前にあるのは欲しくなるような、くまのぬいぐるみ。
とても愛らしい。
しかしそれは見た目どおりの存在ではない。
くまのぬいぐるみのカタチをした何か、だ。
さっき、突然降ってきて、消えていった筋骨たくましい巨大な生物。
その後、それを追うようにして現れたくまのぬいぐるみ。
タイミング的に無関係とは考えにくい。
少女は目の前の愛くるしいくまのぬいぐるみに危機感を抱いている。
ただの危機感ではない。一歩間違えば、すぐそこに死があるような。
たとえば、背負い袋に入れっぱなしのまま動かせずにいる少女の手。
この手がナイフの柄にふれた刹那。
跡形もなく四肢が爆散するような。
弩級の危機感。
「君、陳腐なこと言うね。まるで無責任な親がこれ見よがしに子どもに言って聞かせる言葉みたいだ」
くまのぬいぐるみの姿をした何かが、言う。
いまだ性別による差異がない、子どもっぽい声と口調で、
「しかし事実ではあるよね。おいしいものを食べたり、ふかふかのベッドで眠ったり、おもしろいマンガを読んだり」
喋るたび、ぬいぐるみの口のあたりがもごもごと動く。
どうやって喋っているのでしょう?
ところで、読む、ということは、マンガとは書物の一種なのでしょうか。
などと考える余裕は、いまのメアリにはない。
「しかしてしかし、人生いいことばかりあるわけじゃない。悪いことだっていっぱいあるし、たったひとつの悪いことが、その後の人生で起こるたくさんのいいことを台無しにすることもある」
いやなことを言う、くまのぬいぐるみ。
「それを僕がいま、教えてあげる」
さきほどからメアリの額にはいやな汗がにじんでいる。
くまのぬいぐるみは、ペットの犬に「お手」を命じるかのように、
「服を脱いで裸になれ」
ペットの少女に言い放つ。
「…………」
メアリはわずかばかり逡巡したのち、立ち上がる。
言われたとおりに服を脱ぐ。
ボロのような灰色の、薄汚れたワンピースを脱ぐ。
下着を下ろす。外すほうの下着はまだつけていない。
それで。
裸体の少女が完成した。
「う、おおお」
くまのぬいぐるみは意味にならない声を上げた。
胸らしきものが微かに確認できるも。
やせっぽちの少女の体に。
「ま、まじか」
くまのぬいぐるみはかろうじて意味のある声を上げる。
「僕の、心の中のイチモツが、」
くまのぬいぐるみはふよふよと地に落ちた。
「エレクトしない……」
そして負け犬のごとく土の上に突っ伏す。
「…………」
メアリはとっさに言葉が出ない。
なんだか自分のほうが負け犬のような気さえする。
しかし何かを言わなければ、と。
本能が警鐘を鳴らしている。
「正常な反応ではないでしょうか」
くまのぬいぐるみのこれまでの言動はあまり正常とは言いがたい。
しかし、メアリの裸を見ても心の中のイチモツがエレクトしない。
というのであれば、それは正常な反応と言えるのではなかろうか。
くまのぬいぐるみは少女を仰ぐ。
まさに干ばつに喘ぐ農夫が天を仰ぐように。
そこにわずかな希望を見出そうとするかのように。
つぶらな瞳でメアリを見上げる。
「だって、あなたは幼児性愛者ではない、ということでしょう?」
シュンッ、と。
くまのぬいぐるみがすばやく、再びメアリの顔の前に浮く。
「なんという視野狭窄! もっと広い視野で世界を見て!」
クワッ、と。
「ロリコンとか、そんなのは些細なこと! 重要なのは、人生を楽しむこと! 人生を楽しむために大切なのは、三・大・欲・求! すなわち、食欲! 性欲! 睡眠欲!」
くまのぬいぐるみがまくし立てる。
「この体は食事を必要とする! すなわち、おいしい食事が楽しめる! そして眠ることも可能! しかし性欲! 性欲性欲性欲! これがまったく! いまのところまったく湧いてこない!」
くまのぬいぐるみがさらにまくし立てる。
「ご覧のとおり! この体にはイチモツがない!」
一応、メアリはぬいぐるみの股間を注意深く確認する。
もちろん、リアルなイチモツはそこにはない。
つるつるである。メアリと同じに。
「えっち!」
「ご、ごめんなさい」
(ご覧のとおりって言ったのに。私だって裸をさらしているのに……)
メアリは内心ひそかに言い返す。が、
くまのぬいぐるみのいきおいは止まらない。
「しかし! ヒトは誰しも、心の中にただひとつのイチモツを持っているものさ! それは男も女も関係ない! 老若男女等しく有しているもの! そう! それこそが心の中のイチモツなのさ!」
「あの……」
メアリは勇気を奮って質問してみた。
「あなたは男のヒトなのですか?」
「それが僕にもわからない」
「ひょっとしたら女の子なのではないでしょうか?」
「なぜに?」
「あなたの首のところに、赤いリボンが巻かれているでしょう? 基本的に、リボンは女の子の装飾品ですから、それで」
「いや待って。これはプレゼント用の飾りなのかもしれないじゃない。もしくは蝶ネクタイ的な装飾だとも考えられる。このリボンひとつで僕が女の子だと判断するのは尚早なのではなかろうか。それに僕の一人称は僕だ」
「僕っ娘という可能性は……?」
「……むぅ。その可能性は否定できない」
少女とくまのぬいぐるみはそこで互いに黙り込む。
深く思考を巡らせている。
「でも、こんなにもおっぱいを見たがっている僕が、まさか女なんてことがはたしてあるんだろうか? 女のヒトがあからさまに他人のおっぱいに興味を持つのって、高校生から大学生くらいからだよね? 同じ部活やサークルに巨乳の子がいたら、更衣室で着替え中に、揉むために女の子たちの列ができるよね? あれ? ってことは、僕は十五歳から十八歳以上の僕っ娘ってことなの? それって、大丈夫なの? イタさ的に。ギリギリセーフ? それともアウト?」
くまのぬいぐるみは混乱している。
メアリにはぬいぐるみの言っていることがよくわからない。
きっと、メアリ以外の人が聞いても、よくわからないに違いない。
あるいは、意外とわかる、のかもしれない。
ともあれ、ぬいぐるみはいまだ納得していない。
それは、メアリにも伝わっている。
「じゃあやっぱり、わたしのような貧相な子どもの裸ではなく、豊満な大人の女性がお好みなのでは」
「いやいや、まさか。僕ともあろう者が、そんな視野狭窄に陥っていようとは、考えたくないね。巨乳だろうと微乳だろうと、同じおっぱい。そこに貴賤は存在しない。だからイけるはずさ。僕ならば。ロリでもジュクでも、ね!」
ね! って言われても、ね……
とは、もちろんペットな少女に言えるはずもない。
「では、あなたは第二次性徴前の子ども、という可能性はないでしょうか?」
「ハ、ハ、ハ」
そこで、くまのぬいぐるみはわざとらしい笑い声を立ててみせた。
「これほどまでに理知的な会話ができる僕が、まさか子どもということはありえまい! いや、断じてない!」
「…………」
その点、メアリにはなんとも言えなかった。もはや何も言いたくなかった。
そして、いくら議論しても、この問題に答えを見出せそうになかった。
「あの……」
なので、メアリは思い切って切り出してみた。
「そろそろ服を着てもよろしいでしょうか」
微かな胸とつるつるのあそこを、左右の腕と手で隠すポーズをしてみせる。
「おや、ちょっと早すぎたヴィーナスの誕生?」
「は、恥ずかしいです」
じつは少女の顔は耳まで真っ赤だった。
「むむ!」
突然、くまのぬいぐるみが唸った。
「いま、少しだけ、僕の心の中のイチモツがピクン! と反応したような、気がする!」
「…………」
いやな、予感がする。
「君は僕のペットになった。ペットに服は必要か? 答えは否。ペットに服を着せて、動物の自然な姿を歪めて悦に入るような、僕はそんな飼い主にはなりたくない! ゆえに君の申し出は却下、服を着ることは許可しない。ずっと裸のままでいること!」
メアリは断固たる決意を固めると。すうっと息を吸う。
これを口にしたことで、たとえ殺されるのだとしても。
言わなければならない。
たとえこの身は愛玩動物に堕ちようとも。人間の尊厳を賭して。
必要ならば、人は神にさえ暴言を吐かなればならない。
「あなたはドSなロリコンです」
少女はそのことをたったいま知るのだった。
≪つづく≫
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