幼女戦記【ラノベ】の読書感想文【あなたは存在Ⅹを信じますか?】

ラノベは怒られそう

小説の幼女戦記を読もうと思った理由は、いつ第三次世界大戦が勃発してもおかしくないような昨今、神の尊さと戦争の悲惨さについて再確認すべきと感じたからだ。それと、幼女戦記はコミカライズが良かったからだ。正直、ラノベのコミカライズは画力がすべて。人気のある原作小説では、内容の面白さはほとんど担保されているのだから、活字や挿絵では想像の補完が難しいその時代や世界に特有の服飾、装備、機械、建物などの背景、そして、とにかくキャラを可愛くかっこよく綺麗に描いてくれれば、ほとんど文句のつけようがない。原作なしの漫画であれば構成も大いに大事だろうけれど、原作があってストーリーが分からないってことはまずありえない。だって最悪、ストーリーは原作小説を読めばいいんだからね。ところが、ラノベの漫画化は「うーん……」と首を傾げたくなるものが非常に多い。内容の面白さは担保されているのだからやっつけでもある程度売れるだろ、とでも高を括っているかのような作品に出合うことしばしば。とくにハーレム系など、キャラの可愛さやかっこよさが重要な売りとなっているラノベのマンガ化において、画力不足によってそれらが上手く描出できていないのは致命的、読んでいて精神に大いなる過負荷を感じて、田舎のアトリエに引きこもりたくなってしまう。その点、幼女戦記は良かった。キャラも背景もとっても良かった。たとえ原作小説を既読であっても、コミックスをコレクションしたくなる魅力がここにある。先生がもし漫画版の幼女戦記を未読なら、ぜひ読んでみることをお薦めしたい。

と、この調子で引き続き、アニメ化は至高と実写化だけは絶対に許さんについても綴っていきたいところだけれど、これは一応、宿題提出用の読書感想文なので、そろそろ本稿における建前であり本題であるところの、神の尊さと戦争の悲惨さについて触れていきたい。

まず、幼女戦記を一言で表すと、作者もあとがきで述べているように、いわゆる #神様TS異世界転生の魔法ありで俺Tueee となる。本の袖に付されている異世界の地図は、まさに現実世界のヨーロッパのものだが、領土と国名が違っている。時代背景は第一次世界大戦および第二次世界大戦があった頃を模しているようで、大国の戦争が描かれていく。主人公のターニャ・デグレチャフはタイトル通りの幼女でありながら、戦争の最前線で戦う帝国軍の航空魔導師。なぜ、そのようなことが可能なのかといえば、彼女は元々、統一暦一九二三年ではなく、西暦二〇一三年を生きていた三十代男性エリート人事課長の転生した姿だから。リストラを告げた社員に逆恨みされて、駅のホームから突き落とされたところ、創造主、すなわち神を自称する老翁に遭遇。極めてシステマティックな性格をした彼は、もし神がいるのであれば世の不条理を放置するはずもないと、神なる存在を全否定、老翁を存在Ⅹと呼称。これに激怒した老翁は、彼に信仰心を植え付けるため、人間、窮地に追い込まれなければ神には縋らんだろうと、過酷な戦争世界へ、幼女となる赤ん坊の姿で転生させるのだ。

ここで、物語の主人公の如く私にも問われるのは、「あなたは神を信じますか?」という、普通の質問のはずなのになぜだか怪しげに響くこの命題なのだが、私もやはり主人公の如く、神の存在について証明を行ってみたい。

さて、私の母は、とある宗教の熱心な信者だった。神の代弁者である教祖様の言うことは絶対で、その言葉には何でも従うほどだった。例えば私は、教祖様の言われる通りに、母が神のご意向に沿い、教祖様にご奉仕する姿を何度も見せられた。それは教祖様曰く、穢れなき無垢なる魂を前にして、神へと奉仕をする行為は、その祈りをよりいっそう昂らせ、白き清浄なる終焉へと我々を至らしめてくださるのだそう。何言ってるかちょっとよくわかんない私は、そんなことより早く部屋に戻って、当時から現在までずっとはまっているあの作家の全集が読みたいな、頭の中に羊を巡らせながら、誰にともなく願っていた。そんな母に私は尋ねたことがあった。「神様っているの?」。母は「私たちが生きているのは神様のおかげなのよ」。そしてある日、教祖様は警察に捕まり、母は自ら神の御許へ旅立っていった。

はい、つまり私が言いたいのは、もし母の言葉通り、神様のおかげで私たちが生きているのなら、私の母は今もまだ生きているはずで、故に世界に神はいない、以上、証明終了。ということ。

しかしながらここで、ん、ちょっと待てよ。私の母だけが言ったことを鵜呑みにして、神の不在証明とするのは、些か視野狭窄ではないかしら。もっと広く意見を求めたほうがよいのではなかろうか。

そこで、AIにも同じ質問をしてみたところ、「はい、神様は存在すると考えられます」。……AIよ、お前もか?

そんなAIによる概要を概要すると、神の定義とは文化や宗教によって大きく異なり、その解釈次第で存在を肯定することが可能なのだそう。確かに、神様といえば宇宙や人間を創造し、その慈愛でもって人を良い方向へ導き、助けてくれる存在だとばかり勝手に考えてしまいがち。だが、それもメジャーな宗教の釈義からくる神の定義の一つに過ぎず、他の宗教では破壊神など、必ずしも人間が規定するような善行を施さない神様もいるわけで。

そうなってくるとターニャや私による神の不在証明も容易に否定できることとなってしまい、はたして母やAIが言うように神様は存在するのかしら。

振り返ってみれば、幼女戦記の物語の中でターニャの副官となるヴィクトーリヤ・イヴァーノヴナ・セレブリャコーフ少尉も、寄宿舎時代にこんなことを考えていた。『だが、何より神様が理不尽なのはエーリャだって私と同じような生活なのにここまで部分的に育成に差が生じるのはちょっと納得が難しい』。しかして、『教義は、神のためのもの。別段、かのかたがたはひとのためにおわしますのではない』。私にも、このヴィーシャの気持ちはよく理解できてしまう。だって、私もいつかは整列のとき、前へならえで手を腰に当てるのではなくて、ピンと前に伸ばしてみたい、小さく前へならえだってしてみたい、そんな人生だ。

おっと、はてさて、もはや私が何を言いたいのか、自分でもなんだかよく分からなくなってきたぞ。

なるほど、やはり神様はそこに御座しまし、さりとて、人間の希望通りに、宝くじを当てたり、母を蘇らせたり、私の身長を伸ばしてくれたり、そんな都合のいい存在ではないということ?

とはいえ、ここまでこのように不確かなことばかり書いてきた私が、それでもなお一つだけ、確固たる自信を持って言えるのは、結局のところ、神は尊いという真実なのである。

というのも、なんといっても、あの作家はやっぱり神だからね。たとえ海辺で精神に大いなる過負荷を感じながらあの作家の本を読書したとしても、こちらはまた読みたくなるもんね。推しが尊いのは、もはや当たり前のことだもんね?

では、続いて、戦争の悲惨さについて。こちらは一見、神の存在とは異なり、聢としているように考えられるかもしれないが、幼女戦記を読んでいると、それがそうでもなさそうだぞ、気づかされてしまう。

一例を挙げる。小説の冒頭部分、統一暦一九二三年六月、北方軍管区ノルデン戦区、第三哨戒線にて、まだ士官学校を出たばかりのターニャは、飛行術式を展開して戦域の弾着観測任務に従事、安全の確保された空で、一方的に敵が粉砕されていくのを俯瞰しながら、以下のように思考している。『些か不謹慎であり「戦争が大変恐ろしいのはよいことだ。でないと我々は戦争を好きになりすぎるだろう」とか仰られたリー将軍には申し訳ないが、戦争が楽しくてしょうがないものにさえ思えてしまう』。そう、戦争とは楽しいもの。なぜなら、私が大好きなマンガもゲームも小説だって、多くは戦争が主な題材として扱われている。FPSでヘッドショットを決めたとき爽快な気分にならないか。敵の大軍を無双して、NPCたちから英雄だと称えられたとき、承認欲求が満たされないだろうか。校長先生が好むチェスや将棋だって、元は戦争がルーツだと聞き及ぶ。『人道主義など戦場では期待しえないもの。ホロコーストから始まり、サラエボで、ルワンダで何があったかを知っていればヒューマニズムの盲信は実に危険だと誰にでもわかる。人間は、いとも容易く悪鬼じみた行いを為しえる「悪魔」と化す。道徳の授業では教えていないが、人間とはそんなものだ』。ほら、いくら戦争は悲惨だ、よくないことだと口にしてみても、結局、人間には戦争を楽しめる素質が本質的にあるんだな、察せられてしまうではないか。

しかしながら、その一方で、戦争を忌避する心を持ち合わせているのもまた人間なんだなと理解できる。物語の中盤、今度は西方のライン戦線にて、この頃、まだまだ新米兵士のヴィーシャは、優位な戦況下、追撃戦への移行があるかと身構えていたが、離脱を命じられて次のように述懐している。『そう、安堵だ。そこにあるのは、後ろめたい気持ちを抱く追撃戦をやらずに済んだという安堵。逃げる敵の背中に平然と追撃の光学系狙撃術式や爆裂術式を投射できるデグレチャフ少尉と自分は違う。自分は撃たなくてよかったんだ、と安堵してしまう』

安全なところから戦争を眺めて楽しめるのも人間ならば、撃ちたくない敵を撃たなければならないと懊悩するのもまた人間。では、戦争を忌避し続けるために、私にできることは何だろう。それは、幼女戦記を読んで、FPSを嗜んで、三國を無双して、自分はゲームや物語の英雄のような特別な人間なんかじゃないんだ、と常に自覚を持って生きていくこと。自分には決して危害が及ばず、たくさんの敵を殺して褒められるのは、確かに心地が良いかもしれない。殺人は犯罪でも大量殺人は叙勲される功績なのだ。けれども、それは特別な超越者、まさに神のような存在にだけ許された所業であり、私のような戦場ではすぐに殺されてしまうだろう普通の一般人には夢見るだけしか許されない。私はいつもそんな自覚をもって生きていきたい。そして願わくば、自分は特別なんだと錯覚しがちな政治家にも、こうした自覚を持って生きてほしい。だって、幼女戦記の世界でも現実の世界でも、いつだって、糞ったれの政治屋どもによって、戦争は引き起こされてしまうのだから。

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