薬屋のひとりごとを読もうと思った理由は、もちろん某名探偵図鑑で本作の主人公たる猫猫が紹介されていたからだ。ちなみに私は、この名探偵図鑑で紹介される人物と作品を追いかけ続けているのだが、成歩堂龍一氏が登場した折には、対応のゲーム機を持っていなかったがゆえ、「将来、弁護士になるための役に立つから、買って!」「異議あり! あなたの将来の夢は弁護士ではなかったはずよ!」、大いに苦労した記憶が蘇ってくる。
そんなわけで、薬屋のひとりごとはミステリー。このジャンルは、私がこれまで知り得なかった単語や知識を教えてくれることが多いので、好き。
主人公は、いま言った名探偵図鑑にも載っている薬師の少女・猫猫で、薬草を探しに森へ出かけたところを人さらいに拐かされ、皇の妃たちが住まう後宮の女官として売り渡されてしまう。
そんなの、私だったら、さぞ悲嘆にくれるはず。
しかし猫猫は、まあ、給金はもらえるし、二年ほど働けば市井に戻れなくもないので、就職先としては悪くないと、わりとドライに割り切って務めている。
ここで私が思うのは、ある日、普段と変わらぬ日常を過ごしていたのに、いきなり見ず知らずの男達に拉致され、それまで暮らしていた環境とはまったく別世界に連れていかれて、否応なしにそこで働かされるというのは、どんなにつらいことだろう。
いずれは母国に仇なすスパイに、母国の言葉や文化を教えさせられりしたら、激しい自責の念に駆られるに違いない。さらには、好きでもない人と強制的に結婚させられたりなんかした日には、自ら命を絶とうと考えてしまうほど絶望したっておかしくない。そして、作中の猫猫も度々、医術や薬学の師であり、養父であるおやじのことを気にかけているが、やっぱり、家族や友達と会えなくなるのが、一番悲しいに決まっている。
こんな理不尽が、現実の世界で起こらないことを、私は切に願っている。
とまぁ、そんなこんなで、猫猫は後宮で女官として働いているわけだが、そこでさまざまな事件に遭遇する。
第一の事件は、二人の寵妃の御子の衰弱事件だった。猫猫は習得した薬学的知識を用いて、見事、この謎を解き明かす。目立たずに年季を過ごしたい彼女は、匿名で二人の寵妃に書き置きを残して伝えるも、美形の宦官・壬氏の目に留まってしまい、以後、続発する事件を解決する手伝いをさせられることに。
ここで、イケメン・美女好きな私の興味を惹いたのは、当然、美しすぎる宦官・壬氏だった。
しかして、はて、宦官とは? 調べてみると、それはいつか町の辻で大人たちがひそひそ言っていた老公のことだった。
そのときの噂話によれば、老公とは宦官に対する遠回しな蔑称で、気味の悪い裏声を張り上げ、前のめりにちょこちょこと歩き、生臭いにおいをまき散らす姑息な奴ら。
ところが、壬氏は天女の微笑みを浮かべ、下女はその姿に頬を染め、その声は蜂蜜のように甘く、下級妃や武官から夜のお誘いがかかることしばしば。
言われてみれば確かに、現代でも、とっても綺麗なトランスガールとかいるもんね。
もちろん、壬氏が特別な存在であるのは、本書を読んでいてよくわかる。
けれど、猫猫も、『宦官といえば、時代によっては権力欲にまみれた悪人のごとく扱われるが、実際はほんの一握りである。大抵は、このように穏やかな性格をしている』と、壬氏とはまた別の宦官を評していた。
なるほど、実際この目で見てみなければ、人の噂など当てにはならないな、と私は改めて思った。
こうして、薬屋のひとりごとを読んだことがきっかけとなり、宦官という職業に興味を持った私は、宦官になるための小廠へ、澄み渡る蒼穹の下、デロリアンに乗って、お仕事見学に行ってきた。自分でアポ取りをするのは大変だったが、とても勉強になった。
今回、私を案内してくれた刀子匠のPさんの説明によれば、宦官とは、去勢を施した官吏のこと。皇の血統の混乱を防ぐために男子禁制である後宮で働くには、男を捨てなければならない。
元は、異民族を断種するため、あるいは宮刑という刑罰として生み出された宦官は、今や立身のための手段ともなっていて、自ら進んで男を捨てる者もあれば、困窮した親に連れられてくる子、はたまた猫猫のように人さらいにあって売られてしまう人もいるんだそう。
宦官になるために去勢手術を受けることを自宮や浄身といって、実際に見学させてもらったその現場はなかなかに凄惨だった。
まず、温床の上に楔形の台を敷いて、被術者を半臥の姿勢で仰向かせ、両手を頭上から、両足はそれぞれ片方ずつ、三人のお弟子さんが押さえつける。さらにもう一人が、丁寧に股間を洗う。
そして、火鉢の燠で焙った鋭い抜き身の鎌を構えたPさんが「後悔しないか?」、低い改まった声で訊ね、返答を聞くや聞かぬやの間にすっぱり。驚きの早業の後、肉の焼ける匂いがした。
被術者の悲鳴が啜り泣きに変わる間に、お弟子さんが慣れた手つきで、傷口に白蝋の棒を突っ込む。これは、肉が盛り上がって尿道を閉ざすのを防ぐ処置だ。
その後、傷口は真白な紙で被われる。さすがプロの技というべきか、出血は一瞬のことで、切り取られた陰茎と陰嚢とは足元の皿に置かれていた。
これで手術は終わり、かと思いきや、宦官になるための真の苦痛はここからだった。
被術者はお弟子さんたちに介添えされて、泣きながら半身を起こすと、両肩を支えられて歩き出した。そうして悪い血を出してしまわないと、傷が膿んでしまうのだ。
この工程を三時間続けると、今度は温床の上に大の字にくくりつけられ、三日間水を飲むことが禁止される。
三日経たずに水を飲めば、やはり尿が詰まってしまい、のたうち回って、あの世行きだ、とPさんは語った。
切り取られた一物は、布で水気を拭き取られ、胡椒油の煮えたぎった鍋の中へ。こうして防腐処理が施されると、陶器の瓶に封入して保管される。
これは験宝や宝貝といって、宦官が仕官するとき、昇進するとき、配置換えのときには、その都度、上司に見せて回らなければならない、浄身の証明となる。
刀子匠は、これを貸し出すことでレンタル料を得る。
宦官は出世して、最終的には宝貝を買い戻し、自分が死んで葬られるとき、一緒に棺に納めなければ、来世では雌の騾馬に生まれ変わるのだと信じられている。
お仕事見学の終わりに、私はPさんにこう訊ねた。
――あなたにとって刀子匠とは?
Pさんは答える。
「ご覧の通り、刀子匠は世間から悪魔のように忌み嫌われる仕事です。兄たちはみな、刀子匠を嫌って、別の職業に就きました。末っ子の私だけが逃げ遅れたかたちで、父からこの仕事を継がされたのです。おかげでいまだに結婚もできません。兄たちも甥っ子たちも、誰もここには寄りつきません。しかし、誰もが嫌がる仕事でも、誰かがやらなきゃならない。そうしなければ、世の中は回らない。そのことを、これからの世を担うあなたのような子供たちには、心の片隅に留めておいてほしい。それが刀子匠たる私の密やかなる願いです」
Pさん、この度はお忙しい中、快く私からのお仕事見学の依頼を引き受けてくれて、本当にありがとうございました。
さて、あれやこれやで今回、私が薬屋のひとりごとの読書で学んだのは、どんな理由で就いた仕事でも、その状況に適応して一生懸命に生きるのは、決して悪ではないということ。
冒頭のあらすじに記した通り、本作の主人公たる猫猫は攫われて後宮の下級女官となってしまったが、ドライに割り切って働いていた。もし私なら、悲嘆にくれて絶望し、自ら命を絶つことさえ想像してしまったが、死んでしまったらそこで終わり。猫猫のように誠心誠意生きていれば、きっと誰かが見ていてくれて、格別のお引き立てだってあるかもしれない。いつか、自分の本当の居場所に戻れる日がやってくるかもしれない。
同じようなことがやはり、薬屋のひとりごとが端緒となって、お仕事見学をさせてもらった、刀子匠のPさんにもいえるだろう。
一見すると地獄の鬼のような仕事でも、世間が必要としている限り、誰かがやらなくてはならない。
どんな理由であれ、その仕事を引き受けてくれている人たちに偏見の目を向けたり、軽々に悪だと断じたりするのは、決して正しい行いではないなと私は考えた。
なので、ここで、私がただただゲームがほしいばかりに、これまでの将来の夢であったペーパーハンターを諦め、これからの将来の夢である弁護士を志すのも、決して、悪とはいえないはず。
だから、お母さん。私、将来、弁護士になることにしたから、あのゲーム機、やっぱり買って!

コメント