羅生門【芥川龍之介】の読書感想文【下人がネットを炎上させる】

短い本は怒られそう

羅生門を開くとその先には現代社会の闇があった。いや、実際には平安時代の闇が広がっているのだが。本書の冒頭にも記されている旧記、これは授業でも習ったところの方丈記によれば、当時の平安京は1177年の安元の大火、1180年の治承の辻風・養和の大飢饉、1185年の元暦の大地震など、国が傾くほどの災害続きで、相当大変だったらしい。ちなみに、羅生門は平安京の南の正面玄関にあたる羅城門をモデルにしているとされていて、現在では唐橋羅城門公園の中央にその跡を示す石碑が立っているそう。そんなえらい大昔の話の中に、私はなぜ現代社会の闇を見てしまったのだろうか。学校の勉強やら漫才の練習やらのし過ぎで疲れていたのかしら。ひとつずつ説明していきたい。

まず、現代社会の闇と言ってもいろいろあると思うが、私の知る現実ではこのような事件があった。テレビでとある恋愛リアリティショーが放送されていたのだが、出演者の若い女優さんが、同じく番組に出演する女性モデルさんに手を上げてしまい、ネイルで顔に小さな傷を負わせてしまった。狙った男性を巡っての諍いの結果のようだ。しかし、これはどうやら不慮の事故だったらしく、事件直後若い女優さんは取り乱してパニックに。それをモデルさんが温かくフォローして現場は事なきを得たようだが、当時の放送でその事実は流されていなかった。女優さんは結果を出すため焦っていたのか、毎回空回ってしまっており、評判がかなりよろしくなかった。そして今回、小さな、とはいえモデルの顔に傷をつけてしまったのだから、これを世間が許そうはずもない。現代社会の世間といえば、すなわちこれネット・SNSなわけで、当然、彼女は炎上、自殺未遂にまで追い込まれた。

さて、ここでようやく羅生門の話。主人公は下人。下人とは当時の貴族や武士に仕え、雑用などをさせられていた使用人のこと。大きなニキビを気にしていることから、若者だとが窺える。立て続けに発生した災害で、平安社会は情勢不安に。どうやら彼もその煽りを受けて、仕事をクビになってしまった様子。さらに追い打ちのごとく雨に降られ、羅生門で雨宿りをしつつも行き場を失くし、途方に暮れている。とりま一晩寝られそうな場所探そ。下人は羅生門の楼へ上っていく。と、そこに一人の老婆が。どういうわけか死人の髪を抜いている。下人は激しく老婆を憎悪した。太刀に手をかけ、捩じ伏せた。刃を突きつけながら、なぜこのような真似をしているのか、問い詰めた。

はい、ここ。下人はなぜこうも激しく老婆を憎悪したのか。本書の記述では、それはあらゆる悪に対する反感、すなわち正義感からきているようで、これってネットで炎上させる人たちの動機とも通じていると私は感じたのだけど、どうだろうか。ある記事を見たところ、ネット炎上に書き込みをする極端な人はユーザー全体の1%にも満たず、その動機は許せない、失望したなどの正義感だったとなっている。たぶん、中には炎上を煽ったりして楽しんでいる人、書き込みまではしないにしても彼らの正義に賛同していいねを押したりする人なんかもいて、これは古代ギリシアの石打ち刑を連想させる。そして、「死ね」を代表とする非常に攻撃的で悪質な書き込みをする人は、1%よりもなおいっそう少ないのだとか。つまりは極々一部の超極端な人が行き過ぎた正義感を振りかざし、百個とか二百個とかアカウントを作成して誹謗中傷を繰り返す。はい、そんなあなたは下人です。

正義感を振りかざして悪を攻撃するのってなんか気持ちいい。しかし、正義や悪といったものは所詮、強者が定めた自分に都合の良い概念に過ぎない。だから、正義だと信じて何か行動を起こす際には、能う限りよく考えてから事をなさねばならないだろう。もちろん、熟考した上で出した結論が万人の正義であることもありえないわけだが、少なくともよく考えてみることで、自分がその正義を行使するに足る人間であるのか、己を顧みる機会を掴むことはできるはず。

羅生門の主人公たるこの下人、じつは雨宿りをしているときに自分の今後を盗人になるしかないと思い巡らせるも、どうにも決心がつかずにいた。ひょっとして下人もそんな自分を冷静に振り返れていたなら、正義感を発揮して老婆を捕えるような真似はできなかったかもしれない。結局、老婆は死人の毛を抜いてカツラを作って売ろうとしていたそう。死人の女は蛇を加工して、干魚だと言って売っていた、やらねば餓死するのだから悪くない、自分もまたやらねば餓死するのだと、女の行いも自分の行いも正当化する。そんな理由を聞いた下人は、ならば自分も追い剥ぎをしなければ饑死するのだと、老婆の着物を剥ぎとって、その場を駆け去ってしまう。うーん、皆悪い。

とは言うものの、ここでちょっと見方を変えてみる。ひょっとして老婆は、この災難で親を亡くした孫を養っていたかもしれない。孫のために悪事に手を染めていた可能性もなくはない。命が危ないときに犯してしまった違法行為は減刑されたり罰せられなかったりするような法律もあったようななかったような。そうなってくると老婆の死体損壊や下人の追い剥ぎ行為も、悪であるには違いないにしても、先ほどまでとは受ける印象がやや変わってくる。正義と悪とを隔てる判断とは本当に難しいものだなとひしひしと実感する。

私がもし下人だったら、死人から髪を引っこ抜く老婆の行いを不謹慎だとは思いつつも、自分が捕まえて懲らしめてやろうとまではしなかった違いない。つまり、私はネット炎上に書き込みをする極端な人、もっと過激な誹謗中傷に及ぶ超極端な人には当たらない。その他大勢となる99%の安全安心普通のネットユーザーだからね。みんな仲良くしてね。と、言いたいところだが、現実に目を向けてみると、見て見ぬ振りをしたために救えたかもしれない人を見捨てる結果、要するに悪にならないとも限らず、これがSNSで拡散されて叩かれないとは必ずしも言い切れず、やっぱり難しい問題だと感じてしまう。

ひとつ言えるのは、下人も老婆も自分が満足に食べるだけ以上の財産を抱えていたなら、このような振る舞いはしなかっただろう。飢餓や貧困に追い詰められたら、誰だって下人や老婆のようになってもおかしくないわけで、老婆の言よろしく、どんな悪行でも生きるための行為が悪であるとは断じにくくなってしまう。だって、それを言ってしまったら、生きるために同種をも喰らう野生動物だとか虫だとか、みんな悪ってことになる。やっぱり余裕がなければ人は人に優しくなれず、悪事を働かないとも言い切れないのだと再認識させられる。

とはいえ、いくらお金を持っていたって、当時の平安社会で現実的に食べ物だったりを手に入れるのは難しかったかも。では、発達した現代社会では? 例えば大地震があったとして、まったく物が買えない、手に入らない、といった状況が発生し得るだろうか。どんな非常事態でも、あるところには物はある、金さえ積めばいくらだって手に入る、って気がしてしまうのだけれど、どうだろう。それでもなお、もし仮に災害によって物がまったく手に入らない状況に直面する恐れがあるのなら、莫大な資金力をもってしてそうならないよう備えればよい。自分専用のシェルターに満足いく以上の水や非常食や小説やマンガやゲームやお笑いDVDを備蓄しておいたり。もういっそのこと地震そのものがない安全な国に引っ越してみたり。最近、物価も税金も上がるばかり、どこかよその国に行った方がいくらか暮らしやすいかもしれないし。

はあ、お金が欲しい。マンガの主人公のようなもの凄い力でもあれば、お金がなくても生きていけて、私も人を助けたり世界を救ったりできるのだけど。先述の今ガチの例のように、追い詰められた若い女優さんを救って、惚れさせることも可能なのだけれど。はあ、モテたい。

しかし実情、そんなものはありえない以上、私にできる精一杯をやるしかない。今の私にできることって一体何があるんだろう。

それは炎上商法だ。わざと炎上させてアクセス数を稼ぎ、広告収入を得ればいい。なーに、みんなだって炎上させて人を自殺に追い込んだりしてるんだから、私だって炎上を利用して利益を得たっていいんだよね? はい、そんな私は下人です。

あ、はい、ダメですか。下人はやっぱりダメでしたか。ですよねー。

では、こんな私が下人にならずにお金を稼ぐには、やっぱり勉強を頑張って将来安定した職業につく、あるいは自ら起業して大成功を収める、さもなくばお笑いの頂点を極めて一千万円をゲットするより他にない。そう、私は下人になりたい。あ、間違えました。下人じゃなくて芸人に私はなりたい。そんなわけで今回、羅生門を読んだ私は、この真実に辿り着いた。勉強とお笑いをもっと頑張ろう、と改めて心に誓うのだった。

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