今や鬼滅の刃を知らない人はいない。それほどの大ヒット。ネット上では、これはもはや文学だ、と評する人もしばしばだ。もしも本作が仮に小説だったなら、きっと芥川賞だって取っていたに違いない。間違いない。つまり、鬼滅の刃とは小説だ。巷でよく見かける些かばかり挿絵が多いあの小説だ。最近はラノベと文学作品の違いに疑問を呈する声も多く、ラノベっぽいイラストを使った文学作品も豊富にある。低学年の子たちは絵本で読書感想文を書くことだってある。ならば、この夏の読書感想文、本選びで鬼滅の刃を手に取る同輩も決して少なくないだろう。彼らの読書感想文に見劣りしないものが私に書けるだろうか。いや、やってやる。私が禰󠄀豆子を人間に戻してやる。うん、これは挑戦しがいのある、いい本を見つけたぞ。
そんなわけで今回、私は鬼滅の刃を読書感想文の本として選んだ。夏休み最終日の夜になってから苦肉の策として自室の本棚に手を伸ばし、この本を引っ張り出したわけではない、断じてない。私は前述のような熟考の末、鬼滅の刃を選んでいる。ひょっとして仮にもし、普段から分かりやすくて楽しい授業をしてくださっている賢明な先生が、夏休みの宿題をギリギリまで残す浅薄な輩だと、私をお疑いになるなら、ああ、それは心外だ。せめて以下の内容も読んでから判断してください。お願いします、先生。
さて、本書を読んで私が感銘を受けたのは、主人公たる竈門炭治郎(当時十三歳)とその妹、禰󠄀豆子との兄妹関係だ。もはや説明不要と思われるが、鬼滅の刃はまだこの国に鬼が跳梁跋扈していた大正時代、タイトルからも想像が容易いように、人が鬼を滅する戦いを描いた物語である。
炭治郎は炭焼の家の長男に生まれ、亡き父に代わり炭を売って家計を支える孝行息子。大正時代といえばもの凄いスピードで水道・電気・ガスなどのインフラが普及していったと授業でも習ったが、この頃の田舎の一般家庭はまだ薪や炭で煮炊きをしていたのだろうか。正月は弟妹たちに腹いっぱい食べさせてやりたい、家族思いの炭治郎が行商から戻ると、我が家で一家惨殺事件が発生。もちろん、これは鬼の所業で、炭治郎は唯一生き残った禰󠄀豆子を連れて山を下りることに。しかし、その禰󠄀豆子も吸血鬼よろしく鬼となってしまっていて。炭治郎は妹を人間に戻す手がかりを得るため、鬼滅の道を歩むことになる。
山を下りる途中、炭治郎は、鬼殺隊の隊士である冨岡義勇に遭遇する。義勇は鬼と化した禰󠄀豆子を始末しようと刀を構えるが、炭治郎は妹を殺さないでくれと懇願し、必死になって抵抗を試みる。そんな炭治郎が義勇の一撃で昏倒する。と、今度は、鬼となり自我を失くしたはずの禰󠄀豆子が兄を守る動作を示す。飢餓状態にある鬼は喰種のごとく、親でも兄弟でも殺して食べる。だが、飢えた鬼と化した禰󠄀豆子はそれでも兄を守ろうとする。こいつらは何かが違うかもしれない。義勇はそう思った。私もそう思った。
あまり表立って言えることではないとは分かってはいるが、私にとって兄弟とはたまたま同じ親から生まれて、同じ家に住んでいる人。正直、そのくらいの認識しかない。ところが鬼滅の刃をはじめ、物語の中ではよく、美しい兄弟愛とでもいうべきものが描かれている。はてさて、この美しい兄弟愛とは、空想なのか現実なのか。
これは私の相方の話である。ちなみに、近頃の彼女の口癖は「死んじゃえばいいのに」。最近、よく独り言ちる。彼女の両親が離婚したからだ。原因は妹にあると彼女は話す。彼女の妹は勉強ができない。勉強をしない。彼女も何度か勉強をさせようと教えたことがあったのだけど、開始から十分経っても二十分経っても一問も進まない。三十分経つ頃には机に頭を突っ伏してしまい、もはややる気が全くなくてイライラしてしまう。当然、学校の成績も悪い。彼女の母親は子供の成績にうるさい人で、妹はよく母に叱られている。それを父が庇っている。その諍いは夜中まで続く。妹は泣きわめく、母が怒鳴り散らす、普段温厚な父も声が大きくなる。相方は布団を頭まで被り、妹を呪う。妹はなぜ勉強をしないのか。勉強さえしていればこんなことは起こらない。現に母は私には優しい。妹さえいなければ私の家族は平穏でいられる。妹なんかいなくなってしまえばいいのに。しかし、彼女も本当のところは分かっている。一番悪いのは母である。子供の成績ひとつで何もそこまで激昂しなくてもよいではないか。子の将来を憂う親心なのか、何か理由があるのかもしれないけれど、声を荒げ頬を叩く、それ以外のやり方だってあるのではなかろうか。でも、私も妹に勉強を教えようとするときには、その態度にイライラする。叩きたくなる。ああ、母なんていなくなればいいのに。死んじゃえばいいのに。こんなことを考える私なんて死んじゃえばいいのに。そして、彼女の両親は離婚した。
これが私の知る現実の兄弟。もちろん、これがすべてではないだろうけれど、実際、マンガみたいなとまでは言わないにしても仲が良い兄弟と、私の相方のような兄弟と、世間一般ではどちらの数が勝るのだろう。当然、育った環境が違えば、兄弟関係もまた違ってくる。私の相方も竈門家に生まれていたなら、炭治郎のように妹を愛することができただろうか。禰󠄀豆子を背負いながら懸命に走る炭治郎が、妹を想う場面がある。貧しい竈門家で、禰󠄀豆子は辛抱ばかりしていた。また着物を直している妹の姿に、新しい着物を買わないとと話す炭治郎。しかし禰󠄀豆子は、いいよ、大丈夫、この着物気に入ってるの、それよりも下の子たちにもっとたくさん食べさせてあげてよ。
はい、禰󠄀豆子可愛い。こんな妹なら私もほしい。私が賞金で着物を買ってあげたい。だけど、現実の妹は違う。生意気で、口ばっかりで、何度言ってもトイレの後に手をちょこっとだけ水に濡らして、そのまま電気を切るの止めてくれない。水滴がスイッチについてて不衛生だ。あと、なんでか偉そうだ。でも、相方はこんなことも言っている。私のあとをちょこちょこついてきて可愛い奴めと思ったこともあったかな。まぁ、最終的には鬱陶しい、ってなったんだけど。自分の誕生日に貰ったものをそのまま私にくれようとしたこともあったっけ。なんで? 馬鹿なの? って思ったけれど。
女の話は長い。彼女は私にこうも語る。ああ、私は今、全国民に謝罪したい。私は生涯結婚しない、子供は作らない。少子高齢化? 申し訳ないけど、そんなの知るか。ねえ、こんな話聞いたことある? 親に虐待された子供は、自分が親になってから子供を虐待するんだって。離婚した親の子供が、自分が親になってから離婚しないとは言えないよね? 自分の子供にこんな思いをさせるくらいなら、きっと生まない方がいいんだよ。子供だって生んでほしくなかったって思うはず。私はそう思う。私なんか生まれてこなければよかったのに。だって、私が妹とお母さんを恨んだりしたからこんなことになったんだから。グチグチ文句を言うばかりじゃなくて、もっと他にやるべきこと、できたことがあったんじゃないかな。私はもう一生幸せになれる気がしない。時間が解決してくれる? ええ、確かに時間が経てば、この憂鬱感も少しはマシになるかもしれないね。でも、これって、完全に消えてなくなることってあるのかな。どんなに薄くなったって、この汚れは一生残り続けていく。見るたびに鬱々とした気持ちになる。どんなに楽しいことがあったって、きっとすぐに気分が沈む。だって、こんな汚れのついた私が楽しむなんてありえないよね。
返す言葉が見つからなかった。おそらく、どんな慰めも一発ギャグも、今の彼女には届かない。私はただ禰󠄀豆子の着物のために五百万円がほしいんじゃない。相方と一緒に禰󠄀豆子の着物のために一千万円がほしいのだ。どうしたらいいんだろう。次の予選までの準備期間はいくらあっても足りないというのに。そんなとき、鬼滅の刃を読む。これまで綴ってきた事柄だけでも分かるように、炭治郎の人生は過酷である。家族を鬼に殺され、生き残った妹も鬼となり、そんな妹を人間に戻すため、厳しい修行に耐え、命を削って鬼と戦い続けていく。俺、だめなのかな? 禰󠄀豆子はあのまま死ぬのか? くじけそう。負けそう。頑張れ俺。頑張れ。
例えば、今の彼女に本書を手渡しても劇的には響かないかもしれない。だけど、もう少し、あともう少しだけ時間を置いてから、再度この本を勧めたならば。この鬼滅の刃の物語を、彼女はどのように受け止めてくれるだろうか。願わくば、炭治郎のように前を向いて歩いてほしい。頑張って勉強を続けてほしいお笑いも継続してほしい。頑張れ、炭治郎、頑張れ。俺は今までよくやってきた。俺はできる奴だ。そして今日もこれからも、折れていても、俺が挫けることは絶対にない。舞台の上で、私たちの新ネタにも拝借したあのセリフを言ってほしい。
つまり、これがいつも成績優秀な私が、こんな読書感想文を書いている理由。こんなことがあって、なんだか勉強をするのが馬鹿らしくなってしまった。なーに、ちょっとだけ休憩さ。少しだけ休んだら、また炭治郎みたいに立ち上がって、私も頑張るよ。
なーんてことは決してない。断じてない。私はあくまでも鬼滅の刃は読書感想文を書くに相応しい図書だと考えたからこその、この結果である。
ここまで読んでくださった寛大なる先生ならば、そのことを十全に理解してくれたはずと私は信じる。炭治郎の師となる鱗滝さんのようにそっと頭を撫でてくれて、よく頑張った、お前は凄い子だ、言ってくれると信じてる。本当に信じていますからね、先生。だから、職員室にだけは絶対に呼び出さないでください。お願いしますよ、ねえ、先生。
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